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コンラート2世 (ケルンテン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンラート2世
Konrad II.
ケルンテン公
在位 1035年 - 1039年

出生 990年7月12日?[1]
死去 1039年7月20日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ヴォルムス大聖堂
家名 ザーリアー家
父親 ケルンテン公コンラート1世
母親 マティルデ・フォン・シュヴァーベン
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ケルンテン公コンラート2世(Konrad II., Herzog von Kärnten, 990年頃 - 1039年7月20日)は、ザーリアー家ケルンテン公およびヴェローナ辺境伯(在位:1035年 - 1039年)。年上の従兄弟コンラート2世との区別のため、若公(der Jüngere)といわれる。

生涯

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コンラートは恐らく990年7月12日に生まれ[1]、曾祖父の名から名付けられた。この時にはまだこの一族は自らをザーリアー家と名乗ってはいなかった[1]。コンラートの父はケルンテン公コンラート1世、母はコンラディン家シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘マティルデである。1011年に父コンラート1世が死去した時、コンラート2世は若年であり、ドイツ王ハインリヒ2世アダルベロ・フォン・エッペンシュタインにケルンテン公位を与えた。かわりに、コンラートはザーリアー家の領地であったナーエガウ、シュパイアーガウおよびヴォルムスガウの伯領を継承した。シュヴァーベン公ヘルマン2世の遺領をめぐる争いでは、コンラートは従兄コンラート2世を支持してケルンテン公アダルベロと対立し、1019年にコンラートらはウルム近郊の戦いにおいてアダルベロに勝利した。

1024年に皇帝ハインリヒ2世が死去した時、コンラート若公は1002年の時の父コンラート1世や祖父オットー1世と同様に、ドイツ王の候補の一人となった。それにもかかわらず、宮廷付き神父であったヴィポ・フォン・ブルグント英語版を通して、従兄コンラートのためにその権利を放棄し、最終的に従兄コンラートがドイツ王に選出された。その代償として、コンラートはケルンテン公位の継承を約束されたとみられる。にもかかわらず、1027年にドイツ王コンラートが戴冠式のためローマに向かう間に、2人のコンラートの間で対立が表面化し、最終的に、9月にコンラート若公がドイツ王コンラートに服従した。

1035年5月、ケルンテン公アダルベロが反乱を起こし、ケルンテン公位を剥奪された。コンラート若公が代わりにケルンテン公位を受けたが、シュタイアーマルク辺境伯は与えられなかった。1036年から1037年にかけて、皇帝コンラート2世のイタリア遠征に従い、逮捕したミラノ大司教アリベルトの拘留に加わったが、アリベルトはすぐに逃亡した。コンラートはその後まもなく、1039年に死去した。コンラートはヴォルムス大聖堂の父母の隣に埋葬された。コンラートの死により、その継承者は従兄コンラート2世の息子ドイツ王ハインリヒ3世となった(従兄コンラート2世は1カ月半前に死去していた)。

コンラートが結婚したという記録はないが、クノという息子が1056年にブルッフザールハインリヒ4世に売却したという記録が残る。しかしこの時点までブルッフザールは教会の所有であったため、クノはシュパイアー司教コンラートの「息子」であったとみられる。

脚注

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  1. ^ a b c Wolfram, p. 65.

参考文献

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  • Wolfram, Herwig (2015). "Conrad II (990-1039), the First Medieval Emperor of Three Kingdoms". In Halfond, Gregory I. (ed.). The Medieval Way of War: Studies in Medieval Military History in Honor of Bernard S. Bachrach. Ashgate Publishing, Ltd.
先代
アダルベロ
ケルンテン公
1035年 - 1039年
次代
ハインリヒ4世