コタシャーン
コタシャーン | |
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欧字表記 | Kotashaan |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1988年5月4日 |
父 | ダルシャーン |
母 | オートオートリテ |
生国 | フランス |
生産者 | Wertheimer et Frere |
馬主 |
La Presle Farm →相馬恵胤 |
調教師 |
Andre Fabre(フランス) →Richard E.Mandella(アメリカ) |
競走成績 | |
生涯成績 | 22戦10勝 |
獲得賞金 |
880,000フラン 2,023,300ドル 53,080,000円 |
コタシャーン(欧字名:Kotashaan、1988年5月8日 - )はフランスで生まれ、フランスとアメリカで調教を受けた競走馬。アメリカの芝路線で活躍した。日本のジャパンカップにも出走し、ケント・デザーモ騎手のゴール板誤認事件でも知られた。
戦績
[編集]1990年11月にデビュー。1991年まではフランスで走り8戦3勝、G3を1つ勝っている。
1992年にはアメリカへ転厩。しかしこの年は4戦して一般競走での1勝のみでシーズンを終える。
1993年になると、鞍上にアメリカの名手、ケント・デザーモを迎える。2月のG2サンルイオビスポステークスを7馬身差で制するとG1サンルイレイステークスではG1優勝馬ビエンビエンを抑えG1初優勝。その後もG1サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップで再びビエンビエンにレコード勝ち、G1エディリードハンデキャップを3馬身差で優勝、G1競走3連勝で瞬く間にアメリカ芝路線のトップホースへと上り詰めた。G2デルマー招待ハンデキャップで2着に敗れ連勝が止まったが、G1オークツリー招待ハンデキャップに勝利、1番人気で迎えたブリーダーズカップ・ターフでは三度ビエンビエンを下し優勝した。
そしてジャパンカップへの招待を受け来日。凱旋門賞2着のホワイトマズル、アーリントンミリオン優勝馬スターオブコジーン、東京優駿(日本ダービー)優勝馬ウイニングチケットを抑えて1番人気に支持された。レースが始まると道中は中団やや後方に位置し、最後の直線で鋭い末脚を見せ差を詰めてきた。しかし残り100メートルの地点で鞍上のケント・デザーモがハロン棒をゴール板と勘違いし、追うのを止めた。すぐに自分のミスに気付いたデザーモ騎手は再び追い始めるが、日本のレガシーワールドから1馬身1/4離された2着に敗れた[1]。
この年、G1競走5勝でエクリプス賞年度代表馬、最優秀芝牡馬に選出された。
ジャパンカップを最後に引退し、日本で種牡馬になった。
種牡馬
[編集]1994年からレックススタッドで種牡馬入りする。種付け頭数は年平均50頭以上とまずまずの人気だったが、受胎率は30%程度とかなり低かった。それでも87頭が出走したが、地方重賞勝ち馬が1頭のみ、中央古馬オープンまで勝ち上がった馬も0頭に終わる。1999年には種付け頭数が0頭になり、2000年1月にアイルランドに輸出された。アイルランドでは障害競走用の種牡馬として供用されている[2]。
主な産駒
[編集]- マッキードリーム(播磨賞)
母の父として
[編集]血統表
[編集]コタシャーンの血統(ミルリーフ系 / Nasrullah 5×5=6.25%) | (血統表の出典) | |||
父 Darshaan 1981 黒鹿毛 |
父の父 Shirley Heights1975 鹿毛 |
Mill Reef | Never Bend | |
Milan Mill | ||||
Hardiemma | *ハーディカヌート | |||
Grand Cross | ||||
父の母 Delsy1972 黒鹿毛 |
Abdos | Arbar | ||
Pretty Lady | ||||
Kelty | *ヴェンチア | |||
*マリラ | ||||
母 Haute Autorite 1983 黒鹿毛 |
Elocutionist 1973 鹿毛 |
Gallant Romeo | Gallant Man | |
Juliets Nurse | ||||
Strictly Speaking | Fleet Nasrullah | |||
Believe Me | ||||
母の母 Premiere Danseuse1978 栗毛 |
Green Dancer | Nijinsky II | ||
Green Valley | ||||
Opealia | Cambremont | |||
Optimistic F-No.19-a |
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 netkeiba、スポーツナビ、JBISサーチ、Racing Post