コンテンツにスキップ

コイ・トゥオン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コイ・トゥオンクメール語: កុយ ធួន / Koy Thuon, 1933年 - 1977年)は、カンボジア政治家カンプチア共産党中央委員、北部地域書記。1977年、粛清

別名、クオンクメール語: ឃួន)。

経歴

[編集]

1949年に当時の最高学府であるリセ・シソワット英語版に入学し[1]フランス留学の経験を持つ[2]。卒業後は教員となったが、そこで同僚であったのが後の党幹部ソン・センであり、彼を身元保証人にしてクメール人民革命党(後の共産党)に入党した[1]

1960年の短期間、キュー・サムファンの週刊誌『ロプセルバトゥール』(観測者)で働き、後にコンポンチャムで教員の仕事に就く[1]。同年9月、クメール人民革命党第2回党大会において、党名は「カンプチア労働党」に変更され、「ムーン」という人物が党中央委員に選出された。このムーンはコイ・トゥオンと見られ、党内序列第4位とされた[3][4]

さらに1963年2月の党大会においては、ムーン(コイ・トゥオン)は党中央委員に再選出され、序列6位とされた[2]

その後、地下に潜伏しジャングルにおいてゲリラ活動に参加。1968年3月の時点では北部地域書記として同地域の武装闘争を指導した[5]。しかし、彼は女好き、贅沢好きで評判で[1]クメール・イサラク出身の地域軍司令官ケ・ポクとは絶えず対立していた[6]

反ロン・ノル闘争期

[編集]

1970年クーデターで追放されたノロドム・シハヌーク北京で「カンボジア王国民族連合政府」を樹立すると、トゥオンは連合政府の経済財政次官に任命された[7]。また1971年の党大会では、党中央委員に再選出された[8]

1974年12月初、プノンペン攻撃が迫ると戦線司令官にソン・センが任命され、コイ・トゥオンはその補佐に任命された[9]

1975年4月17日にクメール・ルージュがプノンペンを制圧すると、その3日後の4月20日朝、ポル・ポトに同行してプノンペン入りした[10]

民主カンプチア政権

[編集]

プノンペン制圧直後、トゥオンの北部地域軍は率先して都市住民を農村に追放し、またソ連大使館を強制的に排除した[11]。また、ポル・ポトらによる貨幣制度の廃止と物々交換を支持し、1975年9月の会議で物々交換制度の立ち上げを委託された[12]。同年10月、党常務委員会において事実上の「閣僚」ポストの配分が行われると、トゥオンは内外貿易担当となった[13]

しかし、1976年初めには北部地域書記を解任された[1][14]。同年2月25日、シエムリアプで蜂起が起こると、第106区書記ソトがトゥオンの長年の同僚であったことから疑われた。さらに3月末には、女性を巡る不祥事をフー・ニムが報告している[15]

1976年4月8日、トゥオンは拘束されK-1司令部に軟禁されたが[16]、この時はまだ丁重に扱われていた[17]。4月14日、ポル・ポト内閣の商業委員会委員長(閣僚級)に指名されたが就任しなかった[18]。後任の委員長にはスア・バ・シ(ドゥーン)が就任したが、しかし彼もまた関与を疑われる[19]

粛清

[編集]

1977年前半になると、党内の反インテリ・キャンペーンが盛り上がり、その手始めとして2月にコイ・トゥオンは逮捕され、S21監獄に収監された[20][21][22]。トゥオンの逮捕後、北部地域においては後任の地域書記ケ・ポクにより大量粛清が実行された[23][24]

トゥオンは尋問の結果、CIA要員やベトナムの手先、非共産党員との接触を告白した[25]。3月4日の供述書では、ネイ・サランの提案でカンプチア共産党に対抗する「新カンボジア社会党」の設立を計画し、同党の政治方針が私有財産の復活、市場の再開、通貨の流通、外国からの支援を受けることだったと「自白」し[26]、さらにはポル・ポトの暗殺、部隊の士気阻喪などの計画も「自白」した[27]

また、情報宣伝相フー・ニム、党中央委員会事務局長スア・バ・シ、元内相フー・ユオンらの100人以上の名前を供述し[28]、その後で処刑された。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e チャンドラー(2002年)、134ページ。
  2. ^ a b 山田(2004年)、28ページ・表2。
  3. ^ 山田(2004年)、27-28ページ、28ページ・表2。
  4. ^ ベトナム側文書に基づく別資料では、中央委員会のメンバー11人の中に、コイ・トゥオンの名は見られない。ショート(2008年)、206ページ、214ページ原注4。
  5. ^ ショート(2008年)、259ページ。
  6. ^ ショート(2008年)、379ページ。
  7. ^ ショート(2008年)、316ページ注5。
  8. ^ ショート(2008年)、335-336ページ。
  9. ^ ショート(2008年)、384ページ。
  10. ^ ショート(2008年)、437ページ。
  11. ^ ショート(2008年)、401-402ページ。
  12. ^ ショート(2008年)、466-468ページ。
  13. ^ チャンドラー(1994年)、178ページ。
  14. ^ 別資料では1975年5月とされる。ショート(2008年)、606ページ。
  15. ^ ショート(2008年)、538-539ページ。
  16. ^ ショート(2008年)、539ページ。
  17. ^ ショート(2008年)、543ページ。
  18. ^ ショート(2008年)、537ページ。
  19. ^ ショート(2008年)、539-540ページ。
  20. ^ チャンドラー(2002年)、133-134ページ。
  21. ^ 別資料では1977年1月とある。ショート(2008年)、555ページ。
  22. ^ 別資料では1977年1月25日とある。井上・藤下(2001年)、153ページ。
  23. ^ 1977年3月だけでS21には1059人が投獄され、圧倒的多数が北部地域関係者であった。チャンドラー(2002年)、136-137ページ。
  24. ^ 山田(2004年)、128ページ。
  25. ^ チャンドラー(2002年)、137ページ。
  26. ^ 井上・藤下(2001年)、153ページ。
  27. ^ チャンドラー(2002年)、137-138ページ。
  28. ^ チャンドラー(2002年)、134-136ページ

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]