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ゲラン・ド・プロヴァンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲラン・ド・プロヴァンス
Guerin de Provence
オーヴェルニュ伯
在位 819年 - 839年

死去 853年
配偶者 アルバーヌ(アヴァ)
子女 イザンバール
エルマンガルド
家名 ヴェルジー家
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ゲラン・ド・プロヴァンス(Guerin de Provence, ? - 853年)またはガラン(Garin)、ワラン(Warin)、ヴェルナー(Werner)は、オーヴェルニュ伯シャロン伯マコン伯、オータン伯アルル伯、および、プロヴァンス公ブルゴーニュ公トゥールーズ公。ゲランはマルセイユ基地およびシャロン=シュル=ソーヌの要塞のサラセン人から領土を守り、平定した(834年)。また、ルートヴィヒ1世時代およびその死後のヴェルダン条約(843年)までの内戦に数多く参加した。ゲランに関する記述は、特許状や『皇帝ルドヴィクスの生涯(Vita Hludovici)』などの年代記でうかがい知ることができる。

生涯

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ゲランの出自については、不明な点が多い。セプティマニア辺境伯ベルナール1世の妻ドゥオダによって書かれた『手引書(Liber Manualis)』に基づいて、ギヨーム・ド・ジェローヌとその二度目の妻ギブールの息子であると考えられている。または、アキテーヌ公ワイファリから領地を守ったシャロン伯アダラールの息子もしくは孫であり[1]、相続、あるいは父もしくは祖父の功績により王[2]から与えられ、シャロン伯となったともみられている。また、ゲランはゲラン1世とゲラン2世の2人の人物であったとも言われている。現在は一般的に、ゲランはギヨーム・ド・ジェローヌの子孫ではなく、ゲランは2人の人物でもないと考えられている。当時の文献より、ゲランがセプティマニア辺境伯ベルナール1世と近しい間柄であったとみられ、850年代から860年代にかけての特許状にも親類の「ゲラン伯」の記述がみられる。また、ゲランはオーヴェルニュ伯ベルナール1世の兄ともいわれている[3]

818年、ルートヴィヒ1世はゲランにオーヴェルニュの地を与えたが、それはゲランの妻がおそらくオーヴェルニュ伯イティエ(Ithier)の娘であった関係によると考えられている。825年、ゲランはマコン司教イルデバールと領地を交換し、クリュニーの町を受け取った。

フランク王国年代記』および『皇帝ルドヴィクスの生涯』によると、819年にゲランはトゥールーズ伯ベランジェとともにガスコーニュに侵攻し、ガスコーニュ公ルプ3世の反乱を鎮圧した[4]。820年までにはガスコーニュは制圧され、カロリング家の支配下に戻ったが、ピレネー山脈の向こう側のナバラまでは及ばなかった[4]

840年7月24日、ストラスブールロタール1世が甥アキテーヌ王ピピン2世とともに新たに乱を起こし、自ら皇帝位を宣言し、ロワールに侵攻した。オセール伯エルマンゴー3世、サンス伯アルヌール(Arnulf de Sens、ルートヴィヒ1世の庶子)、オータン司教オードリ(Audri d'Autun)、パリ伯ジェラール2世らがロタールに忠誠を誓う中、ゲランとアダルベール(オーディベール)・ダヴァロンはシャルル2世側にとどまった。841年3月、シャルル側についたブルゴーニュ勢がゲランに従いアキテーヌに赴き、ロタールとピピンを追い出した。同年5月、ゲランはトゥールーズ公およびプロヴァンス公(dux cum Tolosanis et Provincianis)として、 シャロン=シュル=マルヌでシャルルおよびルートヴィヒ2世側に合流した。一方、6月にはピピンがオセールでロタールに合流した。841年6月25日、ロタールとピピンはフォントノワの戦いを開始し、当初は優勢であったが、ゲラン率いるプロヴァンス軍が到着すると、シャルル側が優位となった。

シャルルはセプティマニア辺境伯ベルナールを追い出すため、842年にゲランをトゥールーズに派遣し、843年にはゴティアに向かった。同年8月のヴェルダン条約成立の後は、ゲランはロタールのもとでプロヴァンス公となった[3]。ゲランは829年頃にプロヴァンス公レビュルフ(Leibulf de Provence)の後をうけプロヴァンス公となっていたとみられている[5]。844年、ベルナールの子ギヨーム・ド・セプティマニーから取り上げたオータンを与えられた。ベルナールは843年にゲランによってユゼスで捕縛され、844年にシャルルによって処刑されていた。845年、Fulcradがゲランに代わってプロヴァンス公となり、マルセイユはアダルベール(オーディベール)のものとなった。

子女

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ゲランはアルバーヌ(アヴァ)と結婚し[6]、以下の子女をもうけた[7]

脚注

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  1. ^ Guinard参照。この文献においてはゲラン1世は819年に死去し、825年のマコン司教イルデバールとの領地交換はゲランの息子が行ったことになっているが、疑わしい。
  2. ^ ピピン3世(768年死去)もしくはカール大帝のどちらかである。
  3. ^ a b Lewis (1965), p. 93n
  4. ^ a b Lewis (1965), p. 44
  5. ^ Lewis (1965), p. 92–93
  6. ^ Guinardは結婚を778年としているが、推測にすぎない可能性がある。
  7. ^ Guinardの文献にはイザンバールについての言及はなく、かわりにゲラン1世にはゲラン2世とテオドリック・ド・ヴェルジーの2人の息子と、ベルナール2世と結婚した娘エルマンガルドがいたとしている。

参考文献

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先代
?
オーヴェルニュ伯
819年 - 839年
次代
ジェラール
先代
?
シャロン伯
825年以前 - 853年
次代
イザンバール
先代
レビュルフ
プロヴァンス公
829年 - 845年
次代
フルクラ
先代
ベルナール・ド・セプティマニー
オータン伯
844年 - 853年
次代
イザンバール