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クラウスペーター・ザイベル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラウスペーター・ザイベル
生誕 (1936-05-07) 1936年5月7日
出身地 ドイツの旗 ドイツ オッフェンバッハ・アム・マイン
死没 (2011-01-08) 2011年1月8日(74歳没)
学歴 ミュンヘン音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

クラウスペーター・ザイベル(Klauspeter Seibel, 1936年5月7日 - 2011年1月8日)は、ドイツ指揮者[1][2][3][4][5]

経歴

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オッフェンバッハ・アム・マインの出身。ニュルンベルク市立音楽院とミュンヘン音楽院に学び、ローズル・シュミットにピアノ、カール・ヘラーに作曲、クルト・アイヒホルンとゴットホルト・エフィライム・レッシングの各氏に指揮法を師事。1957年にミュンヘン市からリヒャルト・シュトラウス奨学金の支給を受け、ゲルトナープラッツ国立劇場で指揮者としてデビューし、そこのカペルマイスターとなった。

1963年にフライブルク・イム・ブライスガウ歌劇場、1965年からリューベック歌劇場、1967年からカッセル歌劇場のそれぞれでカペルマイスターの職を渡り歩き、1971年からカペルマイスターとなったフランクフルト歌劇場で、1975年に音楽総監督に昇格した。この間、1967年のニコライ・マルコ国際指揮者コンクール、1969年のディミトリ・ミトロプーロス国際指揮者コンクールのそれぞれで第2位入賞を果たした。1981年からニュルンベルク交響楽団の首席指揮者に転出し、1988年まで在任。1987年から1995年までキール市の音楽監督を務めてキール・フィルハーモニー管弦楽団を育成。1995年から10年間ルイジアナ・フィルハーモニー管弦楽団の初代音楽監督として在勤した。

後進の指導にも熱心で、ハンブルク音楽院、ジュリアード音楽院などでも教鞭をとった。主な弟子に上岡敏之カルロス・シュピーラーアクセル・ベルクステット等がいる。

ハンブルクで多発性骨髄腫により死去[6]

脚注

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  1. ^ クラウスペーター・ザイベル - Discogs(英語)
  2. ^ GESTORBEN Klauspeter Seibel”. 2017年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月20日閲覧。
  3. ^ Opern-Dirigent Seibel 74-jährig gestorben”. 2011年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月14日閲覧。
  4. ^ Seibel, Klauspeter”. 2017年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月20日閲覧。
  5. ^ Wolfgang Butzlaff (2011年1月14日). “Trauer um einen verdienten Dirigenten”. shz.de. オリジナルの2017年10月20日時点におけるアーカイブ。. http://www.peeep.us/31eb3108 2017年10月20日閲覧。 
  6. ^ John Pope (2011年1月10日). “Former Louisiana Philharmonic director was expert musician, loved New Orleans”. The Times-Picayune. オリジナルの2017年10月20日時点におけるアーカイブ。. http://www.peeep.us/807610d5 2017年10月20日閲覧。