カール・フォン・バイエルン
カール・フォン・バイエルン Karl von Bayern | |
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出生 |
1795年7月7日 神聖ローマ帝国、マンハイム |
死去 |
1875年8月16日(80歳没) ドイツ帝国 バイエルン王国、テゲルンゼー |
配偶者 | マリアンネ=ゾフィー・ペティン |
ヘンリエッテ・シェーラー・フォン・フランケンブルク | |
子女 |
カロリーネ・ゾフィー マクシミリアーネ・テオドーレ フランツィスカ・ゾフィー |
父親 | バイエルン王マクシミリアン1世 |
母親 | アウグステ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット |
カール・フォン・バイエルン(Karl von Bayern, 1795年7月7日 - 1875年8月16日)は、バイエルン王国の王族・軍人。全名はカール・テオドール・マクシミリアン・アウグスト(Karl Theodor Maximilian August)。陸軍元帥。バイエルン王マクシミリアン1世の次男。
生涯
[編集]1795年7月7日、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフ(後のバイエルン王マクシミリアン1世)とその最初の妃であったヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク・ヴィルヘルムの娘アウグステ・ヴィルヘルミーネの間に第五子としてマンハイムで生まれた。マクシミリアン1世がアウグステ・ヴィルヘルミーネとの間に儲けた最後の子である。
1813年からの解放戦争にはカールははじめ陸軍少将、のち歩兵大将として参加した。1841年に陸軍元帥(Feldmarschall)およびバイエルン陸軍総監(Inspekteur der bayerischen Armee)に、1860年にドイツ連邦の第7軍の司令官に任じられた。1866年の普墺戦争においてカールはバイエルン軍を指揮した。
1875年8月16日、カールはテゲルンゼー(現バイエルン州ミースバッハ郡)で死去した。ミュンヘンのプリンツレゲンテン通りにあるプリンツ=カール宮殿は、カールが住んでいたことにちなんで名付けられている。
子女
[編集]カールは生涯に2度結婚しているが、ともに貴賎結婚であった。最初の妻は1823年10月1日に結婚したマリアンネ=ゾフィー・ペティン(Marie-Anne-Sophie Pétin、1796–1838)であり、彼女との間には以下の3女を儲けた。マリアンネに対しては結婚と同日付でバイルストルフ男爵夫人(Freifrau von Bayrstorff)の称号が与えられている。
- カロリーネ・ゾフィー(1816–1889) - アドルフ・フォン・グームペンベルク男爵と結婚
- マクシミリアーネ・テオドーレ(1823–1885) - アウグスト・フォン・ドレシェル・ツー・ドイプシュテッテン伯爵と結婚
- フランツィスカ・ゾフィー(1827–1912) - パウロ・マルティンス・デ・アルメイダ子爵と結婚
1859年5月7日、ヘンリエッテ・シェーラー・フォン・フランケンブルク(Henriette Schoeller von Frankenburg、1815–1866)と再婚したが、彼女との間に子供はいない。