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カーディリー教団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カーディリー教団アラビア語: القادرية, ラテン文字転写: al-Qādiriyya)は、イスラームスーフィー教団のひとつ[1]。名称は教団の創設者とされる12世紀の説教師、アブドゥルカーディル・ジーラーニーの名前に由来する[1]。世界最古のイスラーム神秘主義教団である[1]

歴史

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教団の名祖であるアブドゥルカーディル・ジーラーニーは12世紀のバグダードにあったハンバリー法学派マドラサと、同じくバグダードにあったリバート[注釈 1]の代表者であった[2]。マドラサはジーラーニーが師匠のアブー・サイード・ムバーラク・マフズーミー(1119年歿)から引き継いだものである[3]。ジーラーニーの運営したマドラサとリバートは当時よく知られた施設であり、イブン・アスィールの著作にも記録されている[2]

ジーラーニーは家族とともに学院に住み込んで教え、1166年に亡くなった[3]。ジーラーニーの息子、アブドゥルワッハーブが新たに学院長に就任して学院の運営を続けた(アブドゥルワッハーブの死後はさらにその息子に引き継がれる)[2]。ジーラーニーのもう一人の息子、アブドゥルラッザークは父の伝記を出版した。伝記はジーラーニーを教団の創設者として理想化するものであった[3]。教団は繁栄し、モンゴルによるバグダード攻略(1258年)によっても壊滅しなかった[3]。アッバース朝瓦解後に書かれた書物には名祖アブドゥルカーディル・ジーラーニーの聖者性の強調が再びみられるようになる[3]。ヌールッディーン・シャッタナウフィー著 Bahjat al-asrar fi ba'd manaqib 'Abd al-Qadir(アブドゥルカーディルの神秘的行跡における秘密の喜び)は名祖ジーラーニーをイスラームの中で最も偉大な聖者であると説いた[3]。これらの書物により、バグダードからはるか離れた地にも教団の影響力が及ぶようになった[3]。15世紀末には、西はマグリブやアンダルス、東はインドまで、南北はアナトリア半島やアフリカの角に至るまで、教団の支部が設立された[3]

中央アジアから中国へは、ホージャ・アーファークが1674年に臨夏に入り、1689年に亡くなるまで同地で説教と信者の獲得に努めた[3][4]。彼の弟子の祁静一中国語版がカーディリー教団のスーフィズムを中国に根付かせたと言われている[5]

インド亜大陸へのカーディリー教団の拡大には、17世紀のパンジャーブ語詩人、スルターン・バーフー英語版の活動による寄与に大きいものがあった[6]。彼はスーフィーの清貧の理想を、全部で140作を超える数のパンジャーブ語詩で表現した[6]

マグリブと西アフリカでは、クンタ氏族の者たちがカーディリー教団の拡大に関わった[7]。16世紀、クンタ氏族のシーディー・アフマド・バッカーイーがワラータ(現在のモーリタニア南部)にカーディリー教団の修行道場(ザーウィヤ)を設立した[7]。18世紀にはクンタ氏族の者たちがニジェール川中流域へも移住した[7]。シーディー・ムフタール(1728–1811)が分裂状態にあったクンタ氏族を統一すると、西アフリカのイスラームは彼のリーダーシップにより、マーリキー派の法学とカーディリー教団のスーフィズムの組み合わせで再興した[7]

ナイジェリアのゴビル出身のウスマン・ダン・フォディオ(1754-1817)はイスラームの古典的な教養に通じた宗教者であるが、カーディリー教団の教えの大衆化に寄与した[8]。1789年に奇跡を起こす力を得たという自覚を得たウスマンは、人々に特別な祈祷(アウラード)のやり方を教え始めた[8]。ウスマンはさらにその後、夢の中でアブドゥルカーディル・ジーラーニーと出会い、イニシエーションを受けて、預言者ムハンマドにも繋がる精神的な繋がりの連鎖(スィルスィラ)に加わることを許されたと考えるようになった[8]

註釈

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  1. ^ リバート ribāṭ 」という語は、のちの時代にはザーウィヤとほぼ同じような施設を指す言葉となるが、12世紀当時のリバートは、共同で生活する場所を指した[2]。これに対してザーウィヤはスーフィーたちが各々孤立して修行する場所であった[2]

出典

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  1. ^ a b c カーディリー教団 - コトバンク/世界大百科事典
  2. ^ a b c d e Margoliouth, D. S. (1978). "Ķādiriyya, al-". In van Donzel, E. [in 英語]; Lewis, B.; Pellat, Ch. [in 英語]; Bosworth, C. E. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume IV: Iran–Kha. Leiden: E. J. Brill. pp. 380r–385l.
  3. ^ a b c d e f g h i Omer Tarin, Hazrat Ghaus e Azam Shaykh Abdul Qadir Jilani sahib, RA: Aqeedat o Salam, Urdu monograph, Lahore, 1996
  4. ^ Jonathan Neaman Lipman (1 July 1998). Familiar strangers: a history of Muslims in Northwest China. University of Washington Press. pp. 88–. ISBN 978-0-295-80055-4. https://books.google.com/books?id=Y8Nzux7z6KAC&q=ataq+allah&pg=PA72 
  5. ^ Gladney, Dru. "Muslim Tombs and Ethnic Folklore: Charters for Hui Identity"[リンク切れ] Journal of Asian Studies, August 1987, Vol. 46 (3): 495-532; pp. 48–49 in the PDF file.
  6. ^ a b Cuthbert, Mercy (2022年6月14日). “Qadiriyya Tariqa | Founder, History, Beliefs and More” (英語). World Religions. 2023年8月5日閲覧。
  7. ^ a b c d Ira M. Lapidus, A History of Islamic Societies, Cambridge University Press, p. 409
  8. ^ a b c Lapidus, Ira M. A History of Islamic Societies. 3rd ed. New York, NY: Cambridge University Press, 2014. pg 469