オーガスタス・フィッツロイ (第7代グラフトン公爵)
第7代グラフトン公爵オーガスタス・チャールズ・レノックス・フィッツロイ(英語: Augustus Charles Lennox FitzRoy, 7th Duke of Grafton KG CB、1821年6月22日 – 1918年12月4日)は、イギリスの貴族、軍人。最終階級は陸軍大将(1881年)[1]。
生涯
[編集]第5代グラフトン公爵ヘンリー・フィッツロイと妻メアリー・キャロライン(Mary Caroline、旧姓バークリー(Berkeley)、1795年6月18日 – 1873年9月10日、サー・ジョージ・クランフィールド・バークリーの娘)の次男として、1821年6月22日にベルグレイヴィアのグローヴナー・プレイスで生まれた[1]。ハーロー校で教育を受けた[1]。
1839年5月17日、少尉への辞令を購入して、第60歩兵連隊に配属された[2]。1841年8月27日に中尉への辞令を購入して昇進した[3]。同年にコールドストリームガーズに転じ[1]、1847年7月30日にLieutenant and Captainへの辞令を購入して昇進した[4]。1849年10月29日、ヴィクトリア女王の侍従(Equerry)に任命された[5]。1854年7月14日、Captain and Lieutenant-Colonelに昇進した[6]。クリミア戦争に参戦して、1854年11月のインケルマンの戦いで重傷を負った[7]。1858年にオスマン帝国より5等メディジディー勲章を授与された[1][8]。
1873年までに名誉大佐に昇進した後、1873年女王誕生日記念叙勲において、1873年5月24日にバス勲章コンパニオンを授与された[9]。1875年7月28日、(1868年6月28日付で)少将に昇進した[10]。1880年5月21日、中将に昇進した[11]。1881年7月1日、大将への名誉昇進とともに軍務から引退した[12]。
1882年5月21日に兄ウィリアム・ヘンリーが死去すると、グラフトン公爵位を継承した[1]。同年7月1日までにヴィクトリア女王の侍従から辞任、名誉侍従に任命された[13]。同年8月28日、サフォークの副統監に任命された[14]。副統監以外ではサフォーク、ノーサンプトンシャー、バッキンガムシャーの治安判事を務めた[15]。1883年2月3日、ガーター勲章を授与された[16]。
1901年2月22日、エドワード7世の名誉侍従に任命された[17]。1910年6月10日、ジョージ5世の名誉侍従に任命された[18]。
1918年12月4日に死去、長男ヘンリー・ジェームズに先立たれたため次男アルフレッド・ウィリアム・メイトランドが爵位を継承した[15]。
家族
[編集]1847年6月9日、アンナ・バルフォア(Anna Balfour、1857年12月23日没、ジェームズ・バルフォアの末娘)と結婚、4男1女をもうけた[19]。
- ヘンリー・ジェームズ(1848年11月28日 – 1912年5月10日) - 1871年5月29日、ケイト・ウォルシュ(Kate Walsh、1903年11月24日没、ジョン・ウォルシュの娘)と結婚、子供なし[15]
- アルフレッド・ウィリアム・メイトランド(1850年3月3日 – 1930年1月10日) - 第8代グラフトン公爵[15]
- イリナ(1853年8月2日[19] – 1905年9月15日) - 1872年5月4日、ハーバート・フィッツロイ・イートン(Herbert Fitzroy Eaton、1875年4月8日没)と結婚。1875年5月5日、ウォルター・ハーボード閣下(Hon. Walter Harbord、1913年1月28日没、第3代サフィールド男爵エドワード・ハーボードの息子)と再婚、子供あり。1900年に離婚した後、1904年にハーバート・リチャード・マニャック(Herbert Richard Magniac、1909年3月24日没)と再婚、子供なし[15]
- ヴィクター・アレクサンダー・チャールズ(1855年6月16日 – 1858年2月11日[19])
- チャールズ・エドワード(1857年12月9日 – 1911年8月27日) - 1883年6月12日、イスメイ・メアリー・ヘレン・オーガスタ・フィッツロイ(Ismay Mary Helen Augusta Fitzroy、1952年4月22日没、第3代サウサンプトン男爵チャールズ・フィッツロイの娘)と結婚、子供あり。第10代グラフトン公爵チャールズ・アルフレッド・ユーストン・フィッツロイの父[15]
出典
[編集]- ^ a b c d e f Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 68–69.
- ^ "No. 19734". The London Gazette (英語). 17 May 1839. p. 1014.
- ^ "No. 20011". The London Gazette (英語). 27 August 1841. p. 2176.
- ^ "No. 20760". The London Gazette (英語). 30 July 1847. p. 2786.
- ^ "No. 21033". The London Gazette (英語). 30 October 1849. p. 3243.
- ^ "No. 21572". The London Gazette (英語). 14 July 1854. p. 2192.
- ^ "No. 21631". The London Gazette (英語). 22 November 1854. p. 3696.
- ^ "No. 22107". The London Gazette (英語). 2 March 1858. p. 1254.
- ^ "No. 23979". The London Gazette (英語). 24 May 1873. p. 2584.
- ^ "No. 24241". The London Gazette (英語). 31 August 1875. p. 4327.
- ^ "No. 24857". The London Gazette (英語). 22 June 1880. p. 3591.
- ^ "No. 24999". The London Gazette (英語). 26 July 1881. p. 3675.
- ^ "No. 25123". The London Gazette (英語). 30 June 1882. p. 3031.
- ^ "No. 25144". The London Gazette (英語). 5 September 1882. p. 4118.
- ^ a b c d e f Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1193. ISBN 2-940085-02-1。
- ^ "No. 25195". The London Gazette (英語). 6 February 1883. p. 647.
- ^ "No. 27288". The London Gazette (英語). 22 February 1901. p. 1349.
- ^ "No. 28383". The London Gazette (英語). 10 June 1910. p. 4074.
- ^ a b c Lodge, Edmund (1892). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (61st ed.). London: Hurst and Blackett. pp. 281–282.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Augustus FitzRoy
- オーガスタス・フィッツロイ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "オーガスタス・フィッツロイの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
イングランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・フィッツロイ |
グラフトン公爵 1882年 – 1918年 |
次代 アルフレッド・フィッツロイ |