オドルヘユ・セクイエスク
オドルヘユ・セクイエスク セーケイウドヴァルヘイ | ||
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市 | ||
中央広場 | ||
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位置図 | ||
北緯46度18分50秒 東経25度18分6秒 / 北緯46.31389度 東経25.30167度座標: 北緯46度18分50秒 東経25度18分6秒 / 北緯46.31389度 東経25.30167度 | ||
国 | ルーマニア | |
県 | ハルギタ県 | |
行政形態 | 市 | |
政府 | ||
• 市長 | ブンタ・レヴェンテ (ハンガリー人民主同盟) | |
人口 (2002年) | ||
• 合計 | 36,926人 | |
民族構成 | ||
• ハンガリー人 | 95.69% | |
• ルーマニア人 | 2.91% | |
• ロマ | 1.16% | |
等時帯 | UTC+2 (東ヨーロッパ時間) | |
• 夏時間 | UTC+3 (東ヨーロッパ夏時間) | |
市外局番 | +40 266 | |
ウェブサイト | www.udvarhely.eu |
オドルヘユ・セクイエスク(ルーマニア語: Odorheiu Secuiesc)は、ルーマニアのトランシルヴァニアにある都市。ハルギタ県第二の都である。ハンガリー名はセーケイウドヴァルヘイ (Székelyudvarhely)、ドイツ名はオドルヘレン (Odorhellen) だが、省略形としてルーマニア名ではオドルヘイ (Odorhei)、ハンガリー名ではウドヴァルヘイ (Udvarhely) が広く通用する。なお、ハンガリー名の「ウドヴァルヘイ」とは「裁判所の土地」という意味である。
人口動静
[編集]総人口3万6948人のうち、95.7%にあたる3万5359人がハンガリー人で、この割合は国内の都市のなかで二番目に高い[1]。残りは2.91%がルーマニア人で、1.16%がロマである。
国勢調査ごとの総人口の推移:
人口の約半数にあたる50.05%がローマ・カトリックを信仰している。残り半数はハンガリー改革派教会 (30.14%)、トランシルヴァニア・ユニテリアン教会 (14.71%)、ルーマニア正教会 (2.54%) などに分かれる。
歴史
[編集]町はハンガリー王国時代からウドヴェルヘリ県の県庁所在地として、セーケイ地方の中心であった。1334年の教皇文書に「Oduorhelのsacerdos」というハンガリー人が登場するのが地名の初出である[2]。1613年に時のトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルが町の領有権を主張したが、時を同じくしてセーケイウドヴァルヘイ (Székelyudvarhely) に改称された。
1357年にセーケリ地方で初めて議会が置かれ、1451年には砦も築かれた。砦はヤーノシュ・ジグモンドが1565年に増築したが、1599年にワラキアのミハイ勇敢公がハプスブルク家と組んで破壊した。その後再建されたが、それもまた破壊された。城址はいま「セーケイの襲撃を受けた要塞」として知られている。
1920年のトリアノン条約でルーマニア領となり、戦間期はオドルヘイ県に属した。1940年の第二次ウィーン裁定でトランシルヴァニア北部の見做されハンガリー領となったが、ソ連進駐後の1944年にルーマニアの行政区画に組み入れられ、1947年に正式に復帰した。1952年から1960年まではハンガリー人自治区、1960年から1968年まではムレシュ=ハンガリー人自治区に区分された。1968年の自治区廃止にともない、現在までハルギタ県となっている[3]。
2005年8月には大洪水が一帯を襲った。
2004年5月22日には市内の公園にセーケリ地方の歴史上の偉人像がお目見えしたが、そのなかに第二次世界大戦後の軍事裁判にかけられたワシュ・アルベルトの像があったため物議をかもした。
出身有名人
[編集]- セーケイ・モーゼシュ(1553年 - 1603年) トランシルヴァニア公
- ラカトシュ・イシュトヴァーン(1620年ごろ - 没年不詳) 歴史家
- エトヴェシュ・ペーテル(1944年 - ) 作曲家・指揮者
- ライク・ラースロー(1909年 - 1949年) 共産党の政治家。ラーコシ・マーチャーシュの見せしめ裁判の犠牲者
- トムチャ・シャーンドル(1897年 - 1963年) 詩人
- チャナーディ・ジェルジ(1895年 - 1942年) セーケイ賛歌の作詞家
- チキ・アンドラーシュ(1930年 - ) 俳優
- ツォルタン・フェヤー=コネルト(1978年 - ) 卓球選手
姉妹都市
[編集]- ベーケーシュチャバ(ハンガリー、1990年1月15日)
- バルチ(ハンガリー、1991年1月23日)
- スボティツァ(セルビア、1994年10月5日)
- ヴァールケルレト(ハンガリー、1995年7月26日、ブダペストの一地区)
- ヘジヴィデーク(ハンガリー、ブダペストの位置地区)
- ヴァーチ(ハンガリー、1997年4月24日)
- ドゥナイスカー・ストレダ(スロバキア、1997年9月24日)
- ショロクシャール(ハンガリー、1997年9月24日、ブダペストの一地区)
- タタバーニャ(ハンガリー、1999年9月30日)
- テレクバーリント(ハンガリー、2000年3月28日)
- ティハニ(ハンガリー、2000年3月28日)
- ツェグレード(ハンガリー、2001年6月1日)
- ハイドゥードログ(ハンガリー)
脚注
[編集]- ^ Census data 2002
- ^ János András Vistai. “Tekintő – Erdélyi Helynévkönyv”. August 22 2011閲覧。
- ^ John F. Cadzow, Andrew Ludányi, Louis J. Éltető (1983). Transylvania: the roots of ethnic conflict. Kent State University Press. ISBN 0873382838, 9780873382830. "1968 ...On February 14, the administrative reorganization of Rumania eliminates the Mures-Magyar Autonomous Region and replaces it with the counties of Mures,..."