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エレオノーラ・エルネスティーナ・フォン・ダウン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エレオノーラ・エルネスティーナ・フォン・ダウン
Eleonora Ernestina von Daun

称号 ポンバル侯爵夫人
出生 (1721-11-02) 1721年11月2日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死去 (1789-01-03) 1789年1月3日(67歳没)
ポルトガル王国リスボン、ルア・フォルモサ
埋葬 ポルトガル王国リスボン、ノッサ・セニョーラ・ダス・メルセッス教会
配偶者 初代ポンバル侯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ
家名 ダウン家
父親 ハインリヒ・ライヒハルト・ロレンツ・フォン・ダウン
母親 マリア・ジョゼファ・フィオランテ・フォン・ポイムント・ウント・パイヤースベルク
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ポンバル侯爵夫人エレオノーラ・エルネスティーナ・フォン・ダウンドイツ語: Eleonora Ernestina von Daun1721年11月2日 - 1789年1月3日)は、初代ポンバル侯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロの2度目の妻。

生涯

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オーストリアウィーンで、ハインリヒ・ライヒハルト・ロレンツ・フォン・ダウン伯爵(Heinrich Reichard Lorenz von Daun、1673年 - 1729年)とマリア・ジョゼファ・フィオランテ・フォン・ポイムント・ウント・パイヤースベルク(1691年 - 1758年)の娘として生まれた[1]

1745年、セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロと出会った。彼は当時ポルトガルの外交官としてウィーンに滞在、マリア・テレジアと教皇ベネディクトゥス14世の紛争を仲介していた。2人は同年12月に結婚したが、カルヴァーリョ・イ・メロはオーストリアの風土が自身の健康に悪いと感じ、ゲラルド・ファン・スウィーテン医師の助言を容れて[2]辞任、1749年末にエレオノーラを連れてリスボンに帰った[3]。カルヴァーリョ・イ・メロは1759年にオエイラス伯爵に叙され、1769年にポンバル侯爵に叙された。

ポンバル侯爵夫人は侯爵の死から7年後に67歳でリスボンのルア・フォルモサ(現ルア・デ・オ・セクロRua de O Século)で死去し[4]、ノッサ・セニョーラ・ダス・メルセッス教会に埋葬された。

脚注

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  1. ^ Santos, Maria Alcina R. C. Afonso dos (1982). “A Vida Pública de Sebastião José de Carvalho e Mello em Viena de Áustria (1744-1749)”. Revista de História das Ideias 4: 29-39. https://www.uc.pt/fluc/ihti/rhi/vol4/pdfs/Vol_04_T1_02_msantos.pdf 2017年11月7日閲覧。. 
  2. ^ Torres, João Romano (1915年). “Marquis de Pombal”. Portugal - Dicionário Histórico, Corográfico, Heráldico, Biográfico, Bibliográfico, Numismático e Artístico. 2017年11月6日閲覧。
  3. ^ Domingues, Mário José. “Marquis de Pombal”. Encyclopedia Britannica. 2017年11月6日閲覧。
  4. ^ Livro de Registo de Óbitos 1779/1800 (folha 75), Paróquia das Mercês, Lisboa - Arquivo Nacional da Torre do Tombo.