エドワード・キンチ
エドワード・キンチ | |
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1917年撮影。サイレンセスター王立農科大学図書館所蔵。 | |
生誕 |
1848年8月19日 オックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズマーケット・プレイス |
死没 |
1920年8月6日 サリー州ヘーゼルメアダービー通り |
居住 | ザ・リージズ、コマバ |
国籍 | イギリス |
研究分野 | 農芸化学 |
研究機関 | サイレンセスター王立農学校、インド博物館、駒場農学校 |
出身校 | 王立化学校 |
指導教員 | アーサー・ハーバート・チャーチ |
主な指導学生 | 玉利喜造、恒藤規隆、沢野淳[1]、早川元次郎、酒匂常明、渡部朔、三島弥太郎、大内健、新山荘輔、奥健蔵、三浦清吉、広沢弁二、須藤義衛門、井原百介、横井時敬、恩田鉄弥[2]、佐々木善次郎[3] |
影響を 受けた人物 | ユストゥス・フォン・リービッヒ[3] |
影響を 与えた人物 | 松平康荘[2]、謝花昇[4] |
主な受賞歴 | 大日本帝国農学博士 |
プロジェクト:人物伝 |
エドワード・キンチ(Edward Kinch、1848年8月19日 – 1920年8月6日)はイギリスの農芸化学者、お雇い外国人。駒場農学校農芸化学教師、サイレンセスター王立農学校化学教授。日本に初めて農芸化学を移入した。
経歴
[編集]1848年8月19日イギリスオックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズの中心街マーケット・プレイスで薬局を営むチャールズ・キンチとエマの三男として生まれ[2]、10月20日地元の聖メアリー教会で洗礼を受けた[5]。地元のグラマースクール、サウス・ケンジントン王立化学校に学んだ後、サイレンセスター王立農学校に進み、実験助手に採用され[6]、1869年から1873年まで化学教授アーサー・ハーバート・チャーチのアシスタントを務めた[2]。1871年王立化学校実験助手を兼ね、1875年インド博物館鉱物管理責任者に転じた[6]。
1876年(明治9年)農学校新設のため来英していた富田禎次郎によりジョン・D・カスタンス、ジェームズ・ベグビー、ウィリアム・ダグラス・コックス、ジョン・アダム・マクブライドと共に教師として採用され、11月30日ベグビーと共に来日した[1]。師チャーチが日本の陶器・鍔の収集家だったことも影響したと思われる[2]。なお、この時の契約書において訳官鈴木宗泰が"Agricultural Chemistry"を「農芸化学」と訳したのが日本語における同語の最古の用例である[3]。
1877年(明治10年)2月1日農事修学場が仮開校、10月農学校が開校すると、通訳付きで農学科・獣医学科生徒に無機化学金属元素の部・結晶論・玻璃総論・物理化学光線の部・有機化学初歩・実験化学手工形質分析を教え[1]、1880年(明治13年)農学科から農芸化学科を独立させた[3]。
1881年4月1日帰国し[1]、6月30日[2]サイレンセスター王立農学校で恩師チャーチの後任に就任した[7]。農学校の後任ドイツ人オスカル・ケルネルは帝国大学時代の1891年(明治24年)まで勤めた。王立農学校では松平康荘、斯波貞吉、沢野淳・林遠里・山口権三郎、松本源太郎、徳川達孝・早川元次郎、酒匂常明、渡部朔、三島弥太郎、大内健、新山荘輔・品川弥一、奥健蔵・三浦清吉、横井時敬・恩田鉄弥、広沢弁二・一条基治、三成文一郎、長岡宗好、須藤義衛門・戸田務、吉川祐輝、安藤広太郎・鏡保之助、佐々木忠次郎・井原百介・月田藤三郎・原煕、佐藤昌介等、農学校卒業生や日本の農業関係者の訪問を受けた[2]。1890年ジョセフ・ヘンリー・ギルバートにオックスフォード大学での職の斡旋を依頼したが、1894年ロバート・ワーリントンが後任に就き、実現しなかった[2]。
1915年定年退職し、サリー州ヘーゼルメアに隠居した[2]。1919年(大正8年)7月15日日本の農学博士会により農学博士号を授与された[8]。1920年8月6日コマバと名付けた自宅で死去し、聖バーソロミュー教会墓地に葬られた[2]。
業績
[編集]化学分析
[編集]農学校勤務の傍ら、農商務省勧農局農学課分析掛に指名され[7]、日本全国から手当たり次第に持ち込まれる試料の分析に当たった[1]。1877年(明治10年)3月は全国各地の土壌の分析や、岩手県に甜菜根糖製造所を設置するための栽培実験を行い、1878年(明治11年)はパリ万国博覧会に出品する飲食物、明治に現れた新肥料の分析、1879年(明治12年)はシドニー万国博覧会に出品する農産物・在来肥料等の分析を行い、勧農局宮里正静・渡辺洵一郎・福田良作、農学校助教竹尾将信等が助手を務めた[7]。同年蘆粟・ビートの栽培試験を行い、農学校農事見習生牧野次郎吉が助手を務めた[7]。
その他、肥料・飼料としての効能を調べるため、酒、焼酎、甘酒、泡盛、醤油、酎、隠元豆、ソルガム、稲、茶、味噌、砂糖大根、塩、寒天、大根、白蕪、骨粉、干鰯、石鹸石、海苔、グアノ、飴粕、菜種粕、蒟蒻、鳥糞、蚕、鮭、胡麻粕、大麦麩、頭髪、蕎麦、藁灰、紙、亜麻粕、砂糖、下水、落花生、煙草、オタマジャクシ、鱒、泥炭、粗製硫黄等が手当たり次第に持ち込まれ、試料分析を行った[1]。東京大学農学部図書館所蔵の実験ノート「帝国農学校化学教室においてなされた分析結果」には、グワノ、過リン酸石灰、藍玉、干鰯・油粕等の在来肥料、桑葉、富岡製糸工場用水、品川産鮭の分析結果が残されている[1]。
また、農学校農場においてロザムステッド試験場の方式に倣い肥料試験を試みたが、毎年春先に表土が強風で吹き払われるため正確な結果が得られず、退任後数年で廃止された[7]。
著作
[編集]- A Classified and Descriptive Catalogue of a Collection of Agricultural Products Exhibited in the Sydney International Exhibition by the Imperial College of Agriculture - 日本がシドニー万国博覧会に出品した肥料・土壌・農産物の目録[2]。
- Contributions to the Agricultural Chemistry of Japan - 1880年(明治13年)6月8日日本アジア協会で発表[2]。
- List of Plants used for Food or from which Foods are obtained in Japan - 『草木図説』等を参考に日本の食用植物を紹介した[2]。
- Church's Laboratory Guide: A Manual of Practical Chemistry for Colleges and Schools, Specially Arranged for Agricultural Students - 1908年師アーサー・ハーバート・チャーチから版権を譲り受け、第8版以降の改訂版を刊行した[2]。
- Japanese Metric & English Weights & Measures : Tables of Their Relations to Each Other and Relations of Measures of Capacity, Weights and Values to Measures of Area : Compiled for the Use of the Students of the Imperial College of Agriculture
住居
[編集]- 実家 - オックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズマーケット・プレイスにあった[2]。実家では、長兄チャールズ・Jr、次兄ウィリアムズのほか、薬剤師・メイド各1名と同居した[6]。現在婦人服店・肉屋となっている[6]。
- ザ・リージズ The Leauses - 王立農学校教授時代に住んだ建物[2]。サイレンセスタービクトリア通り2番地にあった[2]。1880年築のビクトリア建築[2]。現在B&Bとなっている[6]。
- コマバ - 定年退職後に住んだ家[2]。1912年2月サリー州ヘーゼルメアダービー通りのサニーサイド Sunnyside と呼ばれる建物を購入し、駒場農学校を懐かしんでコマバと名付けた[6]。妻エディスの姪やメイドと同居した[6]。1920年売却され、デイブルック Daybrook と改称された[2]。2005年住宅建設計画のため取り壊された[6]。
家族
[編集]- 父:チャールズ・キンチ - 1814年頃バークシャー州イートン・ヘイスティングズ生[5]。薬局・書店を営み、印刷・切手販売・英国保険会社代理店等の免許も有していた[2]。1859年9月24日聖メアリー教会に葬られた[5]。
- 母:Emma Plumbe Kinch - 1823年4月30日生。1844年8月12日結婚[5]。
- 妻:エディス・シャーリー・キンチ - ペンブルックシャー州テンビー聖メアリー教会司祭ジョージ・ハンティントン娘[2]。1889年4月24日結婚[5]。1890年1月29日難産死した[2]。
なお、1886年生の息子ウィリアムがいたとされるのは別人の誤り[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 熊澤 1986, pp. 5–21.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 熊澤 2011.
- ^ a b c d 熊澤 2013, pp. 568–570.
- ^ 並松信久「謝花昇の農業思想 : 沖縄と近代農学の出会い」『京都産業大学論集. 人文科学系列』第35巻、京都産業大学、2006年3月、32-33頁、CRID 1050001202927350272、hdl:10965/284、ISSN 02879727。
- ^ a b c d e f g h i ”The Kinch Family”.
- ^ a b c d e f g h 熊澤 2010.
- ^ a b c d e 友田 1984.
- ^ 松原 1920.
参考文献
[編集]- 松原行一「キンチ教授」『東洋学芸雑誌』第37巻第9号、東京社、1920年9月。
- 友田清彦「駒場農学校におけるエドワード・キンチ─その学問的業績を中心に─」『農書を読む』第6号、農書を読む会、1984年10月。
- 熊沢喜久雄「キンチとケルネル : わが国における農芸化学の曙」『肥料科学』第9巻第9号、肥料科学研究所、1986年、1-41頁、doi:10.57411/fertilizerscience.9.9_1、ISSN 0387-2718、CRID 1390857226420141056。
- 熊澤喜久雄「キンチ,ケルネル,ロイブと日本の農芸化学曙時代 前編 リービヒ流化学のキンチ,ケルネルによる移植と定着」『化学と生物』第51巻第8号、日本農芸化学会、2013年、doi:10.1271/kagakutoseibutsu.51.566、NAID 10031190495。
- 熊澤恵里子『駒場農学校化学教師エドワード・キンチ ―終の棲家Komabaにこめた日本への想い―』45号、東京大学史史料室、2010年11月30日 。
- 熊澤恵里子「駒場農学校英人化学教師エドワード・キンチ」『農村研究』第113号、東京農業大学農業経済学会、2011年9月。
- Chris Gosnell. “The Kinch Family”. Ocotillo Road. 2017年6月28日閲覧。
- Chris Gosnell. “The Plumbe Family”. Ocotillo Road. 2017年6月28日閲覧。