エイジェン・ベルク
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エイジェン・アヴグストヴィチ・ベルク Эйжен Августович Берг Eižens Bergs | |
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生誕 |
1892年 ロシア帝国リフリャント県リガ郡リガ |
死没 |
1918年9月20日 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1] |
所属組織 |
(ロシア帝国海軍→) 赤軍 |
軍歴 | 1913年 - 1918年 |
エイジェン・アヴグストヴィチ・ベルク(ロシア語: Эйжен Августович Берг、1892年 - 1918年9月20日)、民族名エイジェンス・ベルクス(ラトビア語: Eižens Bergs)は、ラトビア人の軍人・革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。
生涯
[編集]1892年、ロシア帝国リフリャント県リガに漁師の子として生まれた[2]。1913年にロシア帝国海軍へ入隊し、バルチック艦隊で乗務[3]。第一次世界大戦時は戦艦セヴァストーポリに乗務した[2]。2月革命後には艦隊のボリシェヴィキ指導者の一人となり、第1回および第3回バルチック艦隊中央委員会メンバーと海軍中央執行委員会 (ru) メンバーも務めた[2]。同1917年7月にはロシア臨時政府によって逮捕されている[2]。
十月革命の際には船員の叛乱を指揮し、艦を冬宮襲撃に参加させた[2]。同時期より海軍革命委員会メンバーとなる[2]。その後も、ウラジーミル・レーニンの指示によりアナトリー・ジェレズニャコフ、ニコライ・ホヴリン (ru) とともにモスクワ派遣軍を指揮し、ベルゴロド、ハリコフ、チュグエフでも戦い[2]、ベルゴロドではラーヴル・コルニーロフの軍を破った[3]。翌1918年4月に再編されたカスピ海艦隊へ派遣され[3]、夏にはカフカース赤軍通信司令官および軍事革命委員会メンバーとなり、バクー・コミューンをドイツ帝国軍とオスマン帝国軍の双方から防衛した[2]。しかしコミューンが崩壊すると逮捕され、他のコミューン成員らとともに9月20日に銃殺された[2]。
脚注
[編集]- ^ Бакинские комиссары / Л. С. Шаумян // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
- ^ a b c d e f g h i Берг V // Бари — Браслет. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 3).
- ^ a b c “Берг Эйжен Августович”. Энциклопедия Белгородской области (2014年11月21日). 2015年4月3日閲覧。