エア・ローデシア827便撃墜事件
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同型機の機体 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1979年2月12日 |
概要 | ジンバブエ人民革命軍の 9K32 ストレラ-2によって撃墜 |
現場 |
ローデシア ウディ 南緯16度25分 東経29度26分 / 南緯16.417度 東経29.433度座標: 南緯16度25分 東経29度26分 / 南緯16.417度 東経29.433度 |
乗客数 | 55 |
乗員数 | 4 |
負傷者数 | 0 |
死者数 | 59 (全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | ビッカース バイカウント |
運用者 | エア・ローデシア |
機体記号 | VP-YND |
出発地 | ハラレ国際空港 |
経由地 | カリバー空港 |
目的地 | ハラレ国際空港 |
エア・ローデシア827便撃墜事件(エア・ローデシア827びんげきついじけん、英: Air Rhodesia Flight 827)は、1979年2月12日にハラレ国際空港を離陸した同便がジンバブエ人民革命軍の9K32 ストレラ-2地対空ミサイル(MANPADS)によって撃墜された事件である。
事件発生まで
[編集]敵対しているローデシア治安部隊の総司令官であるピーター・ウォールズ将軍が827便に搭乗しているという情報を入手したシンブバエ人民革命軍は、同便を9K32 ストレラ-2で撃墜することでウォールズ将軍を抹殺する計画を決行した。しかし、目的のウォールズ将軍と彼の妻は827便に乗り遅れていた。
その事実を知らない革命軍は827便に対し予定通りミサイルで攻撃し、損傷した827便はカリバ湖の東側で墜落した[1]。この事件で乗客乗員59人全員が死亡した。
2023年現在、ローデシアおよびジンバブエでは最悪の航空事故である[2]。
対策と報復
[編集]2度の事件後エア・ローデシアは赤外線シグネチャー対策として、機体の排気管に シュラウディングを追加し、光波ホーミング誘導式ミサイル対策として、機体を低放射能塗料で塗装した。[要出典]
なおこの事件の約5ヶ月前にはエア・ローデシア825便撃墜事件が発生しており、ローデシア政府は革命軍側に対し報復攻撃を決定した。
そして1979年2月25日、ローデシア空軍は南アフリカ空軍の極秘支援を受け、ザンビアのリヴィングストン近郊の革命軍キャンプに対する攻撃(バニティー作戦)を開始した[3]。
脚注
[編集]- ^ “RHODESIA: Again, Death on Flight SAM-7” (英語). Time. (1979年2月26日). ISSN 0040-781X 2023年2月26日閲覧。
- ^ “ASN Aircraft accident Vickers 748D Viscount VP-YND Kariba”. aviation-safety.net. 2023年2月26日閲覧。
- ^ Ottaway, David B. (1979年2月18日). “Rhodesian Aircraft Attack Guerrilla Camps in Zambia” (英語). ワシントンポスト. ISSN 0190-8286 2023年2月26日閲覧。