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ウラーン・ホシューンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラーン・ホシューンの戦い

ウラーン・ホシューンの戦い略図
戦争:永楽十二年の役
年月日1414年6月7日
場所モンゴル国ウランバートル市トゥブ県
結果:明軍の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
ダルバク・ハーン
順寧王マフムード
賢義王タイピン
安楽王バト・ボラド
永楽帝
安遠侯柳升(中軍指揮官)
寧陽侯陳懋(右翼指揮官)
豊城侯李彬(左翼指揮官)
戦力
3万 50万(公称)
損害
不明 不明
Template:Campaignbox 永楽帝のモンゴル遠征

ウラーン・ホシューンの戦いとは、1414年(永楽12年)に永楽帝率いる軍と、ダルバク・ハーン及び順寧王マフムード率いるオイラト軍の間で行われた戦闘。両軍ともに大きな損害を蒙ったが最終的には明軍の優勢に終わり、ダルバク・ハーンとマフムードはこの戦いの後間もなく亡くなった。

「ウラーン・ホシューン(Ulaγan qosiγun)」とはモンゴル語で「赤い鼻(山嘴)」の意で、『明実録』などの漢文史料では「忽蘭忽失温」と表記される。『元史』にもクトクト・カーン(明宗コシラ)が通った地として記録されており[1]、現在のモンゴル国首都ウランバートルの東南、ケルレン河トーラ河の分水嶺上にあったと考えられている[2]

ウラーン・ホシューンの戦いを含むこの戦役全体を、永楽十二年の役もしくは永楽帝(成祖)の第二次北伐(北征)とも呼称する。

背景

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1409年(永楽7年)、丘福率いる明軍がモンゴリアにおいてペンヤシュリー・ハーンアルクタイ太師の連合軍に大敗したことを聞いた永楽帝はモンゴリアへの親征を決意し、翌1410年(永楽8年)にはオノン河の戦いにてペンヤシュリー・ハーンの軍勢に大勝した(永楽八年の役)。

しかし、この明軍の勝利はペンヤシュリー・ハーンらと敵対していた西モンゴリアを支配するドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)の跳梁を生み、敗戦後オイラトに亡命したペンヤシュリー・ハーンは1413年(永楽11年)にチョロース氏の長順寧王マフムードによって殺害されてしまった。マフムードはペンヤシュリー・ハーンに代わってアリク・ブケ王家のダルバク・ハーンを擁立し、アルクタイ率いる勢力を圧迫した。

このようなオイラトの動きに対し、アルクタイは明朝にオイラトを討伐するよう要請し[3]、永楽帝はこの要請を受け容れアルクタイを封じて和寧王とした[4]。更に同年末から1414年(永楽12年)にかけてオイラト軍が南下して開平興和大寧といった明朝の北方防衛拠点を窺っているとの報告がアルクタイよりもたらされ[5][6]、永楽帝による2度目のモンゴリア親征が決定されることとなった。

戦闘に至るまで

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1414年3月17日、永楽帝率いる明軍は「50万」の大軍であると称し、モンゴリアに向けて北京を出発した[7]。同年6月にはモンゴリアの中央部にまで明軍は進出し、6月3日に明軍はかつてチンギス・カンの駐屯地の一つであったサアリ・ケエル(双泉海)に駐屯した[8]

6月4日、明軍の斥候はオイラト軍の斥候100人余りと遭遇し、オイラト兵は短期間の戦闘の後すぐに退却した[9]が、この時捕らえられた捕虜の口からオイラト軍本隊が明軍から100里余りの地まで接近していることが明らかになった[10]。翌5日も斥候どうしの間で戦闘が行われ、次第に距離を縮めた両軍はケルレン河とトーラ河の中間、ウラーン・ホシューンで対峙することとなった[11]

戦闘の経過

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6月7日、ウラーン・ホシューンにてオイラト軍と明軍は対峙し、両軍はともに高所に布陣した。両軍ともに遊牧国家伝統の中軍・右翼・左翼の3軍構成を取り、オイラト軍は3万余りの規模であったという。オイラト軍の側から動こうとはしなかったため、永楽帝は麾下の騎兵に命じてオイラト軍に突撃させ、これに答える形でオイラト軍も動きだし、戦端が開かれた。

まず、中軍どうしの戦いでは安遠侯柳升率いる部隊が突撃してくるオイラト兵に対して神機銃(火槍)[12]を斉射し、数百人が負傷して混乱したオイラト軍に対して永楽帝自らが重騎兵を率いて突撃し、オイラト中軍は潰走した。オイラト左翼・明右翼の戦場では明の将軍武安侯鄭亨が流れ矢に当たって負傷し、また寧陽侯陳懋・成山侯王通らが奮戦してもオイラト軍をなかなか崩せなかったが、ここでも神機銃の連発によってオイラト左翼軍は敗走に追い込まれた。オイラト右翼・明左翼の戦場では唯一明軍側が劣勢にあり、指揮官の一人が戦死する事態に陥ったが、永楽帝が麾下の騎兵を援軍に回したため遂にオイラト軍は敗走を始めた。明軍は敗走したオイラト軍を追撃して北上し、トーラ河畔で再結集したオイラト軍は反転攻勢に出たが、ここでもオイラト軍は敗れマフムード、タイピンらは逃れた。

以上が明側の史料の伝える戦いの全容であり、明軍はオイラト軍に対して大勝利を収めたとされるが、実際には明側の損害も甚大であったようである。例えば、『朝鮮王朝実録』には「明軍はオイラト軍と交戦し、敗走したオイラト軍を追撃したところ、伏兵に後背を断たれて何十にも包囲されてしまい、神機銃を用いることでようやく攻囲を逃れることができた」という遼東の人々による報告が記録されている。これは第三者の記録であるが故に信憑性については疑問の余地があるものの、この記録が正しければオイラト軍の戦術は敗走してからが本番であり、明側の記録はオイラト側の攻勢を敢えて記録していないこととなる。

これを裏付けるように、永楽帝の第一次北征において明軍はオノン河でオルジェイ・テムル軍と、フルンボイル地方でアルクタイ軍と、それぞれ連戦できる余力があったにもかかわらず、この第二次北征ではウラーン・ホシューンの戦いの後に追撃を主張する諸将を抑えてすぐに帰還している。また、「大勝利」からの帰還後も永楽帝はオイラトに対す防衛体制を強化するよう命じていることなども、「ウラーン・ホシューンの戦い」が決して明軍側の一方的勝利とは言えなかったことを示唆している[13]

[14] [15]

その後の影響

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この戦いにおいてオイラト部族連合、特に主導的な立場にあった順寧王マフムードの勢力は打撃を受け、翌1415年には明朝に対して謝罪の使者を派遣せざるをえなくなった[16]。翌1415年、マフムードとダルバク・ハーンは相継いで死去し、ドルベン・オイラトではタイピン(エセク)がオイラダイ・ハーンを擁立して実権を握った。しかし、タイピンらはアルクタイ率いるモンゴルとの戦いでは劣勢に立ち、今度は逆にモンゴル側が増長することとなった。そのため、永楽帝は再びモンゴルを討伐することを決意したが、その遠征に帰路において崩御した。

一方、オイラト側ではマフムードの息子トゴンが父の地位を継承して短期間で勢力を復興させ、タイスン・ハーンを擁立してモンゴル部族連合を征服し、モンゴリアの再統一を果たした。そのため、ウラーン・ホシューンの戦いは明側における華々しい勝利の喧伝とは裏腹に、明朝にとってはオイラト/モンゴルの屈服という目的を果たせなかった戦略的には価値の低い勝利であったと言える。

脚注

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  1. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[天暦二年五月]甲申、次忽剌火失温之地」
  2. ^ 和田1959,65-66頁
  3. ^ 『明太宗実録』永楽十一年五月二十二日「韃靼太師阿魯台遣撒答失里等来奏、馬哈木等弑其主、収伝国璽、又擅立答里巴為主。請発兵討之、願率所部為前鋒……」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽十一年七月一日「封韃靼太師阿魯台為和寧王、制曰……」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽十一年十一月八日甲申「和寧王阿魯台遣人奏、瓦剌将奥魯已渡飲馬河、至哈剌莽来揚言襲已因而欲窺開平・興和・大寧……」
  6. ^ 『明太宗実録』永楽十二年二月六日庚戌「……会和寧王阿魯台使至言、馬哈木今遣乞塔歹率騎卒至興和、偵朝廷動静……」
  7. ^ 『北征後録』永楽十二年三月十七日庚寅「上躬帥六師、往征瓦剌胡寇答里巴、馬哈木、太平、把禿孛羅等、馬歩官軍凡五十餘万……」
  8. ^ 『北征後録』永楽十二年六月初三日「晨発崇山塢。午後入一山峡、長数十里、有水、下営作午炊、食後再行。晩次双泉海、即撒里怯児、元太祖発跡之所。旧嘗建宮殿及郊壇、毎歳於此度夏。山川環繞、中闊数十里、前有二海子、一塩一淡、西南十里有泉水、海子一処、西北山有三関口、通飲馬河、土剌河、胡人常出入之処也」
  9. ^ 『北征後録』永楽十二年六月初四日「微雨。午晴、次双泉海。前哨馬来報、哨見胡寇数百人、稍与戦皆退去」
  10. ^ 『明太宗実録』永楽十二年六月四日乙巳「前鋒獲虜諜言、馬哈木・太平等兵距此百餘里……」
  11. ^ 『北征後録』永楽十二年六月初五日「午発双泉海、暮至西北三峡口、即康哈里該。無水。是日、前哨馬与寇相遇交鋒、殺敗胡寇数百人宵遁。初六日、次蒼崖峡」
  12. ^ 永楽帝は雲南遠征からの帰還後、火器の製造・運用を掌る機関「神機営」を設置しており、神機営の扱う火銃を「神機銃」と称していた(『明史』巻92兵志4)。1984年には内モンゴル自治区アルホルチン旗において「永楽柒年玖月□日造」と刻まれた銅銃(永楽7年にケルレン河の戦いで大敗した丘福率いるモンゴル遠征軍が所持していたものとみられる)が出土しており、これこそが永楽帝の治世に用いられた神機銃であると考えられている(曹2012)。
  13. ^ 和田1959,66-67頁
  14. ^ 『北征後録』永楽十二年六月初七日「次急蘭忽失温。賊首答里巴同馬哈木、太平、把禿孛羅掃境来戦。去営十里許、冠四集、列於高山上、可三万餘人、毎人帯従馬三、四匹。上躬擐甲冑、帥官軍精鋭者先往、各軍皆隨後至、整列隊伍、与寇相拒。寇下山来迎戦、火銃四発。寇驚棄馬而走、復集於山頂東西、鼓噪而進、寇且戦且卻。将暮、上以精鋭者数百人前駆、継以火銃、寇復来戦。未交鋒、火銃窃発、精鋭者復奮勇向前力戦、無一不当百。寇大敗、人馬死傷無算、皆号痛而往、宵遁至土剌河。上乃収軍、回営已二鼓矣。遂名其地曰『殺胡鎮』」
  15. ^ 『明太宗実録』永楽十二年六月七日戊申「駐蹕忽蘭忽失温。是日、虜寇答里巴・馬哈木・太平・把禿孛羅等率衆逆我師、見行陣整列、遂頓兵山嶺不発。上駐高阜、望寇已分三路、令鉄騎数人挑之、虜奮来戦。上麾安遠侯柳升等発神機銃砲、斃賊数百人、親率鉄騎撃之、虜敗而卻。武安侯鄭亨等追撃虜、亨中流矢退、寧陽侯陳懋・成山侯王通等率兵攻虜之右、虜不為動、都督朱崇・指揮呂興等直前薄虜、連発神機銃炮、寇死者無算。豊城侯李彬・都督譚青馬聚攻其左、虜盡死闘、聚被創、都指揮満都力戦死。上遙見之、率鉄騎馳撃、虜大敗、殺其王子十餘人、斬虜首数千級、餘衆敗走、大軍乗勝追之、度両高山、虜勒餘衆復戦、又敗之、追至土剌河、生擒数十人、馬哈木・太平等脱身遠遁。会日暮未收兵、皇太孫遣騎兵四出覘視知虜已敗走。上始還帳中……」
  16. ^ 『明太宗実録』永楽十三年正月八日丁未「……瓦剌順寧王馬哈木・賢義王太平・安楽王把禿孛羅、遣使観音奴・塔不哈等貢馬謝罪言……」

参考文献

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  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • 曹永年「阿魯科爾沁旗出土的永楽七年銅銃跋」『明代蒙古史叢考』上海古籍出版社、2012年