イヴァン・ウンコフスキー
イヴァン・セミョーノヴィチ・ウンコフスキー[1](Ива́н Семёнович У́нковский、姓はウニコフスキーとも[1]、1822年3月29日 – 1886年8月11日)は、ロシア帝国海軍の軍人。エフィム・プチャーチンとニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーの来日にあたり、軍艦艦長として随行した。帰国後はヤロスラヴリ県知事を務めた。
本項における日付はいずれもユリウス暦である。
略歴
[編集]1822年3月29日、ロシア帝国カルーガ県ペレムィシュリ郡コリシェヴォの村で生まれた[2]。1839年/1840年に海軍幼年学校を卒業すると、1840年にバルチック艦隊に配属された[2]。1841年に黒海艦隊に転じ、1851年に再びバルチック艦隊に転じた[2]。黒海艦隊では1842年より艦隊司令官ミハイル・ペトロヴィチ・ラザレフの副官を務めた[2]。
バルチック艦隊では1852年から1854年までフリゲートのパルラダ号艦長を務め、エフィム・プチャーチンが日本との開港交渉に派遣されたときに来日した[2](このときの軍階は海軍少佐だった[1])。1855年にもパルラダ号で日本海における朝鮮東海岸のうち、北緯35度から42分20度までの部分を測量して記載を行った[2][3]。このときにオルガ湾やピョートル大帝湾におけるポシェト湾を発見している[2]。1857年から1860年までフリゲートのアスコルド号の艦長を務め、1859年のニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーによる対日交渉にあたり、来日したロシア艦隊の司令官を務めた[2]。1860年、海軍少将に昇進した[2]。
1861年から1877年までヤロスラヴリ県知事を務め、1873年に元老院議員に就任した[2]。1880年に聖アレクサンドル・ネフスキー勲章、1883年に一等聖ウラジーミル勲章を授与された[2]。
出典
[編集]- ^ a b c ワジム・クリモフ「琉球におけるロシア人たち(一八五四年二月一日―九日)」『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号、2015年3月、150頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l "УНКОВСКИЙ ИВАН СЕМЁНОВИЧ". Большая российская энциклопедия (ロシア語). Vol. 33. Moscow. 2017. p. 46.
- ^ ソ連科学アカデミー海洋研究所 著、盛谷智之 訳、V. N. Stepanov 編「日本海の地質と水理の基本的特徴」『地質調査所月報』第22巻、第12号、地質調査総合センター、31頁、1971年 。
官職 | ||
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先代 アレクセイ・オボレンスキー |
ヤロスラヴリ県知事 1861年 – 1877年 |
次代 ニキータ・シュミット |