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アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代カーノック男爵
アーサー・ニコルソン
Arthur Nicolson, 1st Baron Carnock
イギリスの旗 在スペイン大使英語版
任期
1904年 – 1905年
前任者エドウィン・ヘンリー・エガートン英語版
後任者モーリス・ド・ブンセン英語版
イギリスの旗 在ロシア大使英語版
任期
1906年 – 1910年
前任者サー・チャールズ・ハーディング
後任者ジョージ・ブキャナン英語版
イギリスの旗 外務省事務次官英語版
任期
1910年 – 1916年
前任者ハーディング・オブ・ペンズハースト卿
後任者ハーディング・オブ・ペンズハースト卿
個人情報
生誕アーサー・ニコルソン
1849年9月19日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ロンドン
死没1928年11月5日(1928-11-05)(79歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ロンドン カドガン・ガーデン
配偶者メアリー・キャサリン・ハミルトン
子供フレデリック・アーチボルド・ニコルソン
アースキン・ニコルソン
ハロルド・ニコルソン
クレメンティーナ・グウェドレン・キャサリン
父:第10代准男爵、サー・フレデリック・ニコルソン
母:メアリー・ロッチ
教育オックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジ
職業外交官

初代カーノック男爵アーサー・ニコルソン英語: Arthur Nicolson, 1st Baron Carnock, GCB, GCMG, GCVO, KCIE 1849年9月19日 - 1928年11月5日)は、イギリス外交官貴族。1899年から1916年にかけては第11代準男爵サー・アーサー・ニコルソン(Sir Arthur Nicolson, 11th Baronet)を称した。

略歴

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第10代准男爵、サー・フレデリック・ニコルソン提督とその妻メアリー・ロッチの間に長男として生まれる。ラグビー校を経てオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジに進学したが、学位を取得せずに退学。1899年、准男爵位を継ぐ[1]1907年サンクトペテルブルクにて英露協商に調印した。

キャリア

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家族

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1882年に近衛第5竜騎兵連隊英語版所属の将校アーチボルド・ローワン・ハミルトンの娘であるメアリー・キャサリン・ハミルトンと結婚し、3人の男子、1人の女子をもうけた[3]

栄典

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出典[1]

1916年、カウンティ・オブ・スターリングにおけるカーノックのカーノック男爵Baron Carnock, of Carnock in the County of Stirling)に叙される。

著書

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the History of the German Constitution」(1873年)

脚注

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  1. ^ a b CARNOCK, Who Was Who, A & C Black, 1920–2008; online edn, Oxford University Press, Dec 2007
  2. ^ http://www.bl.uk/reshelp/findhelpregion/asia/iran/dip.html
  3. ^ Burke (2001), p. 1109
  4. ^ "No. 27329". The London Gazette (英語). 2 July 1901. p. 4399.
  5. ^ "Court and Social". The Times (英語). No. 36493. London. 28 June 1901. p. 10.

外部リンク

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外交職
先代
エドウィン・ヘンリー・エガートン英語版
イギリスの旗 在スペイン大使英語版
1904年 - 1905年
次代
モーリス・ド・ブンセン英語版
先代
サー・チャールズ・ハーディング
イギリスの旗 在ロシア大使英語版
1906年 - 1910年
次代
ジョージ・ブキャナン英語版
官職
先代
ハーディング・オブ・ペンズハースト卿
イギリスの旗 外務省事務次官英語版
1910年–1916年
次代
ハーディング・オブ・ペンズハースト卿
イギリスの爵位
先代
新設
カーノック男爵 次代
フレデリック・アーチボルド
スコットランドの準男爵
先代
フレデリック
(カーノックの)
準男爵

1899年–1928年
次代
フレデリック・アーチボルド