アンリ2世・ド・サヴォワ=ヌムール
アンリ2世・ド・サヴォワ=ヌムール Henri II de Savoie-Nemours | |
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ヌムール公 | |
アンリ2世(ロベール・ナントゥイユ画、1652年、ヌムール城美術館蔵) | |
在位 | 1652年 - 1659年 |
出生 |
1625年11月7日 フランス王国、パリ |
死去 |
1659年1月14日(33歳没) フランス王国、パリ |
埋葬 |
フランス王国、アヌシー フランス王国、パリ、サン=ポール=サン=ルイ教会(心臓のみ) |
配偶者 | マリー・ドルレアン=ロングヴィル |
家名 | サヴォイア家 |
父親 | ヌムール公アンリ1世 |
母親 | オマール女公アンヌ・ド・ロレーヌ |
役職 | ランス大司教(1651年 - 1657年) |
アンリ2世・ド・サヴォワ=ヌムール(仏: Henri II de Savoie-Nemours, 1625年11月7日 - 1659年1月14日)は、ランス大司教(在任:1651年 - 1657年)。また、1652年に兄シャルル・アメデが死去したため、ジュネーヴ公、ヌムール公およびオマール公となった。
生涯
[編集]アンリ2世は、ヌムール公アンリ1世とオマール女公アンヌ・ド・ロレーヌの末息子として1625年にパリで生まれた。
最初は聖職者の道を進み、学問で大きな成功をおさめ、1651年にランス大司教とされた。
しかし、1652年に兄シャルル・アメデが決闘でボーフォール公フランソワに殺されたため、サヴォワ=ヌムール家を継ぐために聖職者の道を断念した。その後、アンリ2世は「彼の美徳によって尊重されたであろう状態」を去った[1]。
1657年5月22日にアンリ2世は「ロングヴィル嬢」として知られるマリー・ドルレアン=ロングヴィル(1625年 - 1707年)と結婚した。マリーはロングヴィル公アンリ2世とルイーズ・ド・ブルボン=ソワソンの娘であった。2人の間には子供は生まれなかった。
多くの人がこの結婚に驚いた[1]。フランスで最も裕福な女子相続人がなぜ若い修道士と結婚しようと思ったのか理解できなかったためである。アンリ2世はどちらかというと学者肌で、病持ちで財産もなく、権力もなく尊重もされていない人物であった[2]。マリーはこの結婚に同意したことを後悔したようであったが、すでに遅すぎた。アンリ2世は教会を去る時に発熱に襲われ、それにより健康も損なわれていた。
アンリ2世は1659年1月14日に死去した。心臓は自身が望んでいたようにパリのサン=ポール=サン=ルイ教会に安置された。遺体はアヌシーの一族の墓所に埋葬された。アンリ2世の死により、フランスのサヴォワ=ヌムール家は断絶した。
ヌムール公領は王領に戻され(ルイ14世はさらに弟オルレアン公フィリップ1世に与えた)、ジュネーヴ伯領およびオマール伯領は姪のマリー・ジャンヌ・ド・サヴォワ=ヌムールが継承した。寡婦となったマリーは1694年にエストゥトヴィル女公、ヌーシャテル女公およびドンブ女公となった[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Louis Charles Dezobry et Théodore Bachelet, Dictionnaire de Biographie et d’Histoire, Paris, 1863.
- « Nemours (Henri II de Savoie, duc de) », in Louis-Gabriel Michaud, Biographie universelle ancienne et moderne : histoire par ordre alphabétique de la vie publique et privée de tous les hommes avec la collaboration de plus de 300 savants et littérateurs français ou étrangers, 2e édition, 1843-1865.
- Louis Moreri, Le Grand Dictionnaire historique ou le mélange curieux de l'histoire sacrée et profane, t. IX, Paris, Les Libraires associés, 1759, 448-664 p.
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、アンリ2世・ド・サヴォワ=ヌムールに関するカテゴリがあります。