アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク Anna von Braunschweig | |
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出生 |
1390年ごろ |
死去 |
1432年8月10日 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 チロル伯領、シュタムス修道院 |
配偶者 | オーストリア公フリードリヒ4世 |
子女 |
マルガレーテ ヘートヴィヒ ヴォルフガング ジークムント |
家名 | ヴェルフ家 |
父親 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フリードリヒ1世 |
母親 | アンナ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク |
宗教 | キリスト教カトリック |
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク(ドイツ語:Anna von Braunschweig, 1390年ごろ - 1432年8月10日)は、オーストリア公フリードリヒ4世の2番目の妃。
生涯
[編集]父はヴェルフ家のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フリードリヒ1世、母はアスカニア家のアンナ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルクである。父フリードリヒ1世は、ローマ王ヴェンツェルが廃位された後、1400年5月のフランクフルトでの帝国会議において、ローマ王候補となった(実際にはループレヒトがローマ王となった)。
1410年、アンナはオーストリア公フリードリヒ4世と結婚した。この結婚は、フリードリヒ4世の最初の妃エリーザベトが死去した後に、エリーザベトの父ローマ王ループレヒトからもたらされたものであった[1]。
結婚後も、アンナは実家と連絡を取りあった。1421年4月、アンナはエンシスハイムで母と面会し、1425年には姉カタリーナがしばらくチロルに滞在した。1430年、1431年そして1432年に従兄弟ヴィルヘルム1世がアンナのもとを訪れた[2]。
結婚後数年間については政治的活動を行ったという記録はないが、1414年6月にアンナはコンスタンツに滞在し、成功はしなかったものの、夫をローマ王にするための選挙運動を行った。チロルに戻った後、1417年初めまでアンナはもっぱらハインリヒ6世・フォン・ロッテンブルクが領有する南チロルに滞在した[3]。
1418年から1427/8年にかけて、アンナは度々政治に関与している。例えば1419年春に、アンナはトリエント司教との争いに介入し、内オーストリアを訪問中で不在であった夫フリードリヒに代わって一時的な休戦協定を結ばせた。1419年夏から1421年秋まで、アンナは代表として、前方オーストリア(アルザス、シュヴァーベン)で評議員とともに、販売、誓約、賞や基金などの政治的活動を行った[4]。
子女
[編集]- マルガレーテ(1423年 - 1424年6月9日)
- ヘートヴィヒ(1424年 - 1427/32年[5])
- ヴォルフガング(1426年2月16日) - 生まれた日に死去
- ジークムント(1427年 - 1496年) - オーストリア公
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Klaus Brandstätter: Die Tiroler Landesfürstinnen im 15. Jahrhundert. In: Julia Hörmann-Thurn und Taxis (Hrsg.): Margarete Maultasch. Zur Lebenswelt einer Landesfürstin und anderer Tiroler Frauen des Mittelalters. Vorträge der wissenschaftlichen Tagung im Südtiroler Landesmuseum für Kultur- und Landesgeschichte Schloss Tirol, 3. bis 4. November 2006 (= Schlern-Schriften. Bd. 339). Wagner, Innsbruck 2007, ISBN 3-7030-0438-X, pp. 175–217.