アレクサンドル・スワニーゼ
アレクサンドル・スワニーゼ ალექსანდრე სვანიძე | |
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1915年 | |
生誕 |
1886年 ロシア帝国 クタイシ県バジ |
死没 | 1941年8月20日 |
国籍 | ソビエト連邦 |
民族 | グルジア人 |
出身校 | イェーナ大学 |
職業 |
オールド・ボリシェヴィキ 歴史 |
配偶者 | マリーア・カローナ |
子供 | イヴァン・スワニーゼ |
親 |
スヴィモン・スワニーゼ シポラ・ドゥヴァリ |
親戚 | ヨシフ・スターリン (義兄) |
家族 | イェカチェリーナ・スワニーゼ (姉) |
アレクサンドル・セミョーノヴィチ・"アリョーシャ"・スワニーゼ(グルジア語: ალექსანდრე სვანიძე; ロシア語: Алекса́ндр Семёнович Свани́дзе, 1886年 - 1941年8月20日)は、グルジアのオールド・ボリシェヴィキの政治家、歴史家である。ヨシフ・スターリンの最初の妻カトーの弟であった。しかしながら1937年の大粛清の際にスターリンは彼を逮捕させ、1941年に獄中で銃殺された。
生涯
[編集]スワニーゼは当時ロシア帝国の一部であったグルジア西部のバジという小さな村の小貴族の家庭に生まれ、トリビシで教育を受け、後にイェーナでドイツ語と英語を学び、古代文明の歴史研究に励んだ。
1901年にロシア社会民主労働党、1904年にボリシェヴィキに入党し[1]、1919年にグルジアを追われるまでボリシェヴィキの地下組織で活動した。1920年から1921年にかけてはソビエト連邦外務省で働き、1921年から1922年にかけてはグルジアSSRとザカフカースSFSRの財政担当人民委員を務めた。1924年、ソ連のドイツ通商使節に任命され、1935年にソ連に戻るとソ連邦国立銀行副会長に就任した。1930年代の大半はソビエト外国貿易銀行の頭取を務めた。
同時期にスワニーゼは『古代史ジャーナル』を創刊し、アラロディア語を研究し、中世グルジアの詩人ショタ・ルスタヴェリのロシア語翻訳を行った[2]。
大粛清の最中、スターリンは1937年にスワニーゼの逮捕を命じた。スワニーゼは内務人民委員部から命と引き換えにドイツのスパイであることを自白するよう提示されたが拒否した。スターリンは彼を「貴族のようなプライドだ」と評したと言われている。1941年、ドイツ軍の侵攻に伴いスワニーゼとその妹マリコは処刑された[3]。スワニーゼの妻マリーア(1889年-1941年)はトリビシ・オペラ・ハウスの歌手であったが、カザフスタンの女性収容所ドリンスコエで10年の刑に処された。彼女は処刑を知らされて心臓発作で亡くなった[4]。息子のイヴァンは1957年から1959年までスターリンの娘のスヴェトラーナ・アリルーエワと結婚していた[5]。
出典
[編集]- ^ Fitzpatrick 2015, p. 328
- ^ Сванидзе, Александр Семенович. Hrono.ru. Retrieved on 2008-06-14.
- ^ Montefiore 2007, pp. 311–312
- ^ Alliluyeva 1967, pp. 68–69
- ^ Fitzpatrick 2015, p. 317
参考文献
[編集]- Alliluyeva, Svetlana (1967), Twenty Letters to a Friend, London: Hutchinson, ISBN 0-06-010099-0
- Fitzpatrick, Sheila (2015), On Stalin's Team: The Years of Living Dangerously in Soviet Politics, Princeton, New Jersey: Princeton University Press, ISBN 978-0-691-14533-4
- Montefiore, Simon Sebag (2007), Young Stalin, London: Phoenix, ISBN 978-0-297-85068-7