アルマス・リンドグレン
アルマス・リンドグレン | |
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生誕 |
フィンランド語: Armas Eliel Lindgren 1874年11月28日 フィンランド大公国ハメーンリンナ |
死没 |
1929年10月3日 (54歳没) コペンハーゲン |
国籍 | フィンランド人 |
出身校 | 工業技術学院 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
フィンランド国立博物館 Uusi ylioppilastalo エストニア劇場 |
アルマス・エリエル・リンドグレン(フィンランド語: Armas Eliel Lindgren, 1874年11月28日-1929年10月3日)は、フィンランドの建築家で教授、画家である。
経歴
[編集]前半生と職歴
[編集]アルマス・リンドグレンは1874年11月28日ハメーンリンナ生まれ、ヘルシンキ工科大学で建築を学び、1897年に卒業。学生ながらジョセフ・ステンバックとグスタフ・ニーストロムというフィンランドの名前の通った建築家2人の手伝いをする。1898年から翌99年にかけてスウェーデンやデンマーク、ドイツやフランス、イギリスで美術と文化の歴史を学んだ。それに先立つ1896年にはヘルマン・ゲセリウスとエリエル・サーリネンと3人共同でゲセリウス・リンドグレン・サーリネン建築事務所を立ち上げている。同所はフィンランド国立博物館(ヘルシンキ)など、いくつかの重要なプロジェクトを実現させた[1][2]。
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リンドグレン(前列右、1896年[注釈 1])
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ケンペレ教会 、1896年。
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左からリンドグレン、エリエル・サーリネン、ヘルマン・ゲセリウス。1890年代後半(中央右はアルベルティナ・エストマン)Daniel Nyblin撮影。
教職
[編集]美術史の教師として工科大学で働き始めるのは1900年である。1902年から1912年まで中央応用芸術学校(現・ヘルシンキ芸術デザイン大学)の芸術学部長[3]を務めた。1905年、リンドグレンはゲセリウス・リンドグレン・サーリネン事務所を離れ、1908年に自分の事務所を設立した。その事務所にBertel Liljequistが1916年に入所した[1]。
リンドグレンは1910年代にWivi Lönnと緊密に協力し、1910年にヘルシンキ新学生会館 (Uusi ylioppilastalo)を一緒に設計した。コルプ修道院も1911年に、
教授職
[編集]リンドグレンは1919年にグスタフ・ニーストロムに代わってヘルシンキ工科大学建築学教授に就任[2]、著名なフィンランドの建築家アルヴァ・アールトを教え、影響を与えることになる[5][1]。
代表的な建物
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ハイッコ邸、1913年
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ウニオン通り26番とEteläesplanadi 4番の角、ヘルシンキ。1913年
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ヘルシンキのMannerheimintie 5–7番(1910年–1914年)。5番はUusi Ylioppilastalo 。Wivi Lönnと共同設計。
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Hotel Seurahuone(旧カレワラ相互年金保険会社ビル)、1914年。
脚注
[編集]注記
[編集]- ^ (前列)トルステン・モンテリ、エリエル・サーリネン、アルベルティナ・エストマンとWivi Lönn(後列)。
出典
[編集]- ^ a b c d Nikula (11 October 2005). “Lindgren, Armas (1874 - 1929)”. Kansallisbiografia. 24 June 2020閲覧。
- ^ a b “Armas Lindgren”. Museum of Finnish Architecture. 27 June 2020閲覧。
- ^ “Armas Lindgren 1874 – 1929”. Finnish National Board of Antiquities. 11 June 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月24日閲覧。
- ^ Kevin O'Connor (2006). Culture and customs of the Baltic states. Greenwood Publishing Group. p. 220. ISBN 0-313-33125-1
- ^ Sarah Menin (2003). Nature and space: Aalto and Le Corbusier. Routledge. p. 35. ISBN 0-415-28124-5
- ^ “Träskändan kartano Aurora Karamzinin jälkeen”. Espoon Perinneseura. 27 June 2020閲覧。