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アルフレッド・スコット=ゲティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルフレッド・スコット=ゲティ
Alfred Scott-Gatty
生誕 1847年4月26日
死没 (1918-12-18) 1918年12月18日(71歳没)
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身校 クライスツ・カレッジ
(ケンブリッジ大学)
職業 ガーター主席紋章官
ヨーク紋章官
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サーアルフレッド・スコット・スコット=ゲティ: Sir Alfred Scott Scott-Gatty KCVO KStJ FSA、1847年4月26日 - 1918年12月18日[1])は、イギリス紋章官ガーター主席紋章官を務めた。

生涯

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アルフレッド・ゲティの次男としてウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー英語版(現:ウェスト・ヨークシャー)、エクルズフィールド英語版に生まれる[1][2]ケンブリッジ大学クライスト・カレッジに学ぶ[3]

ルージュ・ドラゴン紋章官補英語版ステファン・タッカーの臨時秘書を務めたことを皮切りに、紋章官としての道を歩む[1]。1880年にルージュ・ドラゴン紋章官補、1886年にヨーク紋章官に補せられた[1][3]。1892年に家名に「スコット」(母方の姓)を加えた[1]

1904年に紋章官トップのガーター主席紋章官に就任した[1][4]

主席紋章官在任中に第一次世界大戦が始まり、嫌独感情が高まりを見せた。国王ジョージ5世は、「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世ガーター勲章を過去の先例にならって剥奪すべし」という新聞投書を読み、スコット=ゲティにガーター勲章を剥奪できるか問うてきた。スコット=ゲティは「投書の内容は史実であり、国王は騎士団の主権者として剥奪は可能」と回答している[5][注釈 1]

スコット=ゲティはアマチュアの作曲家としても活動し、人気を博した[1]。代表作はプランテーション・ソングと評され、当時流行したという[2]。1918年、ガーター主席紋章官在任のまま、ロンドンで死去した[3]。ロンドン近郊のウェリンに埋葬された[1]

栄典

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スコット=ゲティ個人の紋章。

脚注

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注釈

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  1. ^ ジョージ5世は剥奪を決め、1915年5月14日に騎士団員のヴィルヘルム2世以下ドイツ諸侯やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を対象にそのバナーを撤去した[6]。(詳細は、「1917年称号剥奪法」を参照。)

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Walter H Godfrey; Anthony Wagner (1963年). “Garter King of Arms | British History Online”. www.british-history.ac.uk. 『British History Online』英語版. ロンドン大学歴史研究所イギリス議会. pp. 38-74. 2024年12月1日閲覧。
  2. ^ a b Richards, Grant (1919). Obituary. JSTOR. 60. The Musical Times. p. 74. https://www.jstor.org/stable/3701688 2024年11月26日閲覧。 
  3. ^ a b c "Gatty (post Scott-Gatty), Alfred (GTY867AS)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  4. ^ "No. 27669". The London Gazette (英語). 22 May 1904. p. 2582.
  5. ^ 君塚 (2014), pp. 170–173.
  6. ^ 君塚 (2014), p. 186.
  7. ^ "No. 27624". The London Gazette (英語). 8 December 1903. p. 8112.
  8. ^ "No. 28505". The London Gazette (英語). 16 June 1911. p. 4595.

参考文献

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紋章官職
先代
ウィリアム・ウェルドン英語版

ルージュ・ドラゴン紋章官補英語版

1880–1886
次代
アルバート・ウッズ英語版
先代
ジョン・デ・ハヴィランド英語版

ヨーク紋章官

1886–1904
次代
ジョージ・ウィリアム・マーシャル英語版
先代
アルバート・ウッズ英語版

ガーター主席紋章官

1904–1918
次代
ヘンリー・ファーナム・バーク