アルバート・ブルース=ジョイ
アルバート・ブルース=ジョイ Albert Bruce-Joy | |
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1890年ころのアルバート・ブルース=ジョイ | |
生誕 |
1842年8月21日 ダブリン |
死没 |
1924年7月22日 (81歳没) イギリス、ヘイズルミア(Haslemere) |
アルバート・ブルース=ジョイ(Albert Bruce-Joy、1842年8月21日 - 1924年7月22日)は、アイルランド生まれの彫刻家である。主にイギリスで活躍した。
略歴
[編集]ダブリンで生まれた。父親のウィリアム・ブルース・ジョイ(William Bruce Joy MD)は1612年にフランスからアイルランドに亡命してきたユグノーを祖先に持つ成功した医師であった。アルバート・ブルース=ジョイは姓を「ブルース=ジョイ」として活動した。弟のジョージ・W・ジョイ(1844-1925)は画家になった。アルバート・ブルース=ジョイは父親の方針でドイツのオッフェンバッハ・アム・マインやフランスのパリで学んだ後、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンで学んだ[1]。成人した後、美術を志しロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで彫刻家のジョン・ヘンリー・フォーリーに学んだ後、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校で学んだ。1866年からアカデミーの展覧会に作品を出展した[2]。1867年からローマに修行に出て、1870年に帰国した[3]。
1874年にかつての師であったジョン・ヘンリー・フォーリーが亡くなった。亡くなる少し前にフォーリーが依頼を受けていたダブリンのアイルランド王立医療大学(Royal College of Physicians of Ireland)の建物の4体の装飾彫刻のうち3体をフォーリーが制作を終えていたが、4体目の医師のロバート・ジェームス・グレーブス(Robert James Graves)の像はブルース=ジョイが代って完成させた。この作品で評価を得て多くの彫刻の注文を受けるようになり、マンチェスターやリヴァプール、ロンドンなどに現在もあるモニュメントを制作した。
1924年にサリー州ヘイズルミア(Haslemere)近くのShottermillで亡くなった。
作品
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マンチェスターのJohn Bright(政治家)のモニュメント (1891)
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リヴァプールのAlexander Balfour(実業家)のモニュメント
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ダブリンの聖パトリック大聖堂のJames Whiteside (政治家)の像
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ライオン像
参考文献
[編集]- ^ Kate Newmann, in: Dictionary of Ulster Biography.
- ^ “Albert Bruce-Joy (1842-1924), Sculptor”. National Portrait Gallery. 1 January 2012閲覧。
- ^ Albert Bruce Joy ARHA, RHA, Mapping the Practice and Profession of Sculpture in Britain and Ireland 1851-1951, University of Glasgow History of Art and HATII, online database 2011, accessed 04 Dec 2012.