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アルタン・ブカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルタン・ブカAltan-buqa、? - 1323年以降)は、クビライ・カアンの息子のマンガラの子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では按檀不花、『集史』などのペルシア語史料ではالتون بوقاĀltūn būqāと記される。

概要

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クビライ・カアンの三男で安西王に封ぜられたマンガラの息子として生まれ、兄弟にはアルスラン・ブカ、アナンダらがいた。マンガラは父のクビライより安西王に封ぜられて旧タングート西夏)地方の統治に携わっていたが、至元11年(1274年)には新たに秦王にも封ぜられ、安西王印・秦王印の二つを有するようになった[1]

至元15年(1278年)にマンガラが亡くなるとマンガラ家当主の座及び安西王印・秦王印はアナンダが継いだが、後に秦王位と秦王印のみはアルタン・ブカが継承した。このような状況に対し財務官僚のサンガは一つの王家で二つの王印を用いるのは制度上宜しくないと述べ、アナンダの有する安西王位・安西王印はそのままとしたが、アルタン・ブカの有する秦王印は回収されその王傅も廃止された[2]

しかしその後もしばらくはアルタン・ブカの秦王としての権威は残っていたようで、至元26年(1289年)には「秦王府」がアルタン・ブカの命令を受けて事務を遂行した事が記録されている。だが至元27年(1290年)に経済部門を統括する典蔵司が廃止されて以後、「秦王」アルタン・ブカの名は史書に表れず秦王としての公的資格は失われたものと見られる[3]

テムル・カアンが亡くなった際、アナンダはブルガン・ハトゥンと協力してカアン位に即こうと画策したが、アユルバルワダのクーデターによって失敗し、その後カアンとなったカイシャンによって処刑された。このために安西王家は廃止されて安西王領はアユルバルワダに与えられ、アルタン・ブカやアナンダの息子のオルク・テムルは勢力基盤を失ってしまった。

アルタン・ブカやオルク・テムルを始め旧安西王国の臣下は安西王国の復活を請願したものの拒絶されたため、英宗-仁宗政権の転覆を狙うようになった。英宗政権を揺るがしたコシラの叛乱の切っ掛けを作った陝西行省は旧安西王国領に設置されたものであるため、安西王家の旧臣が関与したのではないかとする説もある[4]

至治3年(1323年)、カイシャンの後を継いだ英宗シデバラの統治に不満を抱く者達が密かに結集し、暗殺を計画した。この計画の首謀者には御史大夫テクシ、知枢密院事エセン・テムル、大司農シクトゥル、前平章政事チギン・テムル、前雲南行省平章政事オルジェイ、前治書侍御史鎖南、テクシの弟の宣徽使鎖南、典瑞院使トブチ、枢密院副使ハサン、僉書枢密院事章台、衛士トゥマン及び諸王アルタン・ブカ、ボラト、オルク・テムル、曲呂不花、ウルス・ブカらがおり、この中でもクビライの嫡子の直系であるオルク・テムル、アルタン・ブカの地位は高かった[5]

首謀者達はシデバラの暗殺には成功したものの、暗殺に関わった王族を新しいカアンとすることは大義名分の上で難しく、またオルク・テムルやアルタン・ブカらも当面は安西王家の復活のみを狙っていたため、結果として晋王イェスン・テムルを新たなカアンに選ぶこととなった[6]。この際、王族のアルタン・ブカとエセン・テムルが晋王家の領地モンゴリアに赴き、イェスン・テムルをカアンに擁立する意思を伝えている[7]

イェスン・テムルがクリルタイでカアンに即位した同日、イェスン・テムルによってオルク・テムルに安西王位が与えられたものの、僅か3月後にイェスン・テムルは傀儡化を恐れて英宗暗殺の首謀者達を弾圧し、アルタン・ブカは海南島に流されてしまった[8]。海南に流された後の動向については記録がなく、まもなく亡くなったものと見られる。

安西王家の系図

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『元史』・『集史』ともにほぼ同じ系図を記録している。

出典

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  1. ^ 松田 1979, p. 43-44.
  2. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年十一月]丁酉、桑哥言「先是皇子忙哥剌封安西王、統河西・土番・四川諸處、置王相府、後封秦王、綰二金印。今嗣王安難答仍襲安西王印、弟按攤不花別用秦王印、其下復以王傅印行、一藩而二王、恐於制非宜」。詔以阿難答嗣為安西王、仍置王傅、而上秦王印、按攤不花所署王傅罷之。
  3. ^ 松田 1979, p. 49.
  4. ^ 杉山 1995, p. 148.
  5. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治三年]八月癸亥、車駕南還、駐蹕南坡。是夕、御史大夫鉄失……月魯鉄木児……兀魯思不花等謀逆、以鉄失所領阿速衛兵為外応、鉄失・赤斤鉄木児殺丞相拜住、遂弑帝於行幄」
  6. ^ 杉山 1995, p. 147-148.
  7. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年]八月癸亥、英宗南還、駐蹕南坡。是夕、鉄失等矯殺拜住、英宗遂遇弑於幄殿。諸王按梯不花及也先鉄木児奉皇帝璽綬、北迎帝於鎮所」
  8. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年十二月]癸未……流諸王月魯鉄木児於雲南、按梯不花於海南、曲呂不花於奴児干、孛羅及兀魯思不花於海島、並坐与鉄失等逆謀」

参考文献

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  • 杉山正明大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304hdl:2433/73071ISSN 0452-9774 
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史学雑誌』第88巻第8号、史学会、1979年、1249-1286,1350-、CRID 1390282680110385280doi:10.24471/shigaku.88.8_1249ISSN 00182478 
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻76列伝58