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アルタシェス・カリニャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルタシェス・バラシエヴィチ・カリニャン
Арташес Баласиевич Каринян
Արտաշես Բալասիի Կարինյան
生年月日 (1886-11-11) 1886年11月11日
(または11月24日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国バクー県バクー郡バラハヌィ
没年月日 (1982-05-29) 1982年5月29日(95歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アルメニア・ソビエト社会主義共和国エレヴァン
出身校 サンクトペテルブルク大学法学部英語版卒業
前職 編集者
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ→)
ソビエト連邦共産党
称号 下記参照

中央執行委員会議長
在任期間 1925年6月24日 - 1928年7月

中央執行委員会副議長
在任期間 1923年 - 1925年6月

法務人民委員
在任期間 1921年5月21日 - 1921年9月17日[1]

教育副人民委員
在任期間 1929年 - 1930年
1933年 - 1934年

在任期間 1918年 - 1918年
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アルタシェス・バラシエヴィチ(バラシイ)・カリニャンロシア語: Арташес Баласиевич Каринянアルメニア語: Արտաշես Բալասիի Կարինյան1886年11月11日〈または11月24日〉 - 1982年5月29日)は、ソビエト連邦アルメニア政治家人文学者文芸評論家。本姓ガブリエリャン (Габриэлян[1], Գաբրիելյան[2])。

生涯

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1886年11月11日(ユリウス暦10月30日)[1]または11月24日、ロシア帝国バクー県バラハヌィ[3]油田に勤務する父のもとに生まれた[4]バクーのギムナジウムで初等教育を終えてからは[4]、学生運動やストライキに積極的に参加し、『ナバト』(ru) 誌の編集に関わった[3]1905年から1907年にかけては『カイツ』(hy) や『ザイン』(hy) といったボリシェヴィキ系のアルメニア語新聞の編集にも関わり、「レヴォン・ブルチャン」の筆名で「単一党の進化」「我々の最新の無政府主義者たち」といった著名な記事を書いた[3]1906年には「ブルト」の筆名で、マクシム・ゴーリキーの戯曲『太陽の子ドイツ語版』を扱った文芸評論『文学と人生』«Գրականությսւն և կյանք» を処女作として出版した[3]

同年にカリニャンはサンクトペテルブルク大学法学部へ入学し、1910年に卒業した[3]。在学中の1907年から、バクーでロシア社会民主労働党の党員となっている[3]。バクーでは『バキンスキー・ラボーチー』や『グドークロシア語版』など各紙で活躍し、ステパン・シャウミャンアリョーシャ・ジャパリゼ、ウラジスラフ・カスパロフ (hy)、スレン・スパンダリャンロシア語版イヴァン・フィオレトフサルキス・カシヤンメシャジ・アジズベコフといった革命家らとも知遇を得た[5]。同年にはカフカース人の学生グループとテリヨキロシア語版へ赴き、そこで初めてウラジーミル・レーニンの演説を直接に聞いた[6]1908年から『カフカース労働者新聞』編集者[6]、大学卒業後の1911年から『ノル・ホスキ』誌の編集者となり、カリニャンの文章は『プラウダ』紙にも掲載された[5]。1911年から1912年にかけて『ノル・ホスキ』に掲載されたヴァハン・テリアンハコブ・ハコビアン英語版の詩に関する評論は、マルクス主義に基づく最初のアルメニア文学研究とされる[5]

1913年に、カリニャンはボリシェヴィキでの革命活動を理由としてツァリーツィンで逮捕され、1917年二月革命までをペトログラードで過ごした[7]。この間の1916年にも『パイカル』(hy) 紙で活動している[8]。1917年秋にペトログラード軍事革命委員会ロシア語版の指示でバクーへ派遣され、シャウミャンとジャパリゼの提案でバクー・ソビエトの執行委員に選出された[7]。翌1918年にボリシェヴィキによるバクー・コミューンが発足すると、カリニャンはその法務委員に任命された[7]。コミューンが崩壊してからはモスクワへ移り、1920年まで民族問題人民委員部のアルメニア人部門で働き、『カルミル・ドロシャク』(hy)・『コミュニスト』各紙の編集・発行に関わった[9]。1920年代から1930年代にかけてアルメニア共産党中央委局員となっている[10]

1921年にカリニャンは党の指令によってアルメニア社会主義ソビエト共和国に送られ、同国の法務人民委員に就任した[9]。同年から翌1922年にかけても、トルコアメリカなどで、アルメニア人ディアスポラ問題の処理に関わった[9]。翌1923年から1925年6月までアルメニア共和国中央執行委員会副議長およびソビエト連邦中央執行委附属ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国常任副代表、1925年6月24日から1928年7月までアルメニア共和国中央執行委議長を務めた[1]1929年から1930年まで『ザカフカース国民経済』誌編集長およびアルメニア共和国教育副人民委員を、1932年から翌1933年まで全連邦共産党ザカフカース地方委歴史研究所所長を、1933年から翌1934年まで再度アルメニア共和国教育副人民委員を務め[1]、アルメニア共産党中央委員会のメンバーにも選出された[9]。1930年代には文芸誌『ノル・ウギ』(hy) 編集長も務め[2]、1934年以来のアルメニア作家同盟 (hy) メンバーでもある[11]

1940年からカリニャンは学術分野で活動するようになり、1941年から1965年までアルメニア共和国科学アカデミー文学研究所上級研究員、1965年から晩年まで歴史研究所 (hy) 上級研究員を務めた[1]1953年文献学博士号ロシア語版を取得し[2]、1956年にアルメニア共和国科学アカデミー正会員へと選出された[9]1960年から1963年までアカデミー社会科学部門の学術書記、1963年から1965年までアカデミー副会長代行も務めている[9]1961年9月23日から1976年1月20日までは再びアルメニア共産党中央委員会メンバーに選出され、1961年にから1964年まではソビエト連邦閣僚会議附属の文学・芸術分野におけるレーニン賞選定委員会のメンバーも務めている[1]

カリニャンは1982年5月29日に95歳でエレヴァンで死去[10]。同地に葬られた[10]

褒章

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g Каринян (Габриэлян) Арташес Баласиевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g ԱԿԱԴԵՄԻԿՈՍ Ա. Բ. ԿԱՐԻՆՅԱՆԻ ԿՅԱՆՔԻ ԵՎ ԳՈՐԾՈՒՆԵՈՒԹՅԱՆ ՀԻՄՆԱԿԱՆ ՏԱՐԵԹՎԵՐԸ”. Greenstone Digital Library Software. 2018年4月1日閲覧。
  3. ^ a b c d e f Բարսեղյան (1986) էջ. 11
  4. ^ a b Գալուստ (1961) էջ. 95
  5. ^ a b c Բարսեղյան (1986) էջ. 12
  6. ^ a b Գալուստ (1961) էջ. 96
  7. ^ a b c Բարսեղյան (1986) էջ. 13
  8. ^ Գալուստ (1961) էջ. 97
  9. ^ a b c d e f Բարսեղյան (1986) էջ. 14
  10. ^ a b c d e f Бочаров А. “Каринян Арташес Баласиевич”. Герои страны. 2018年4月2日閲覧。
  11. ^ ԱՐՏԱՇԵՍ ԿԱՐԻՆՅԱՆ”. AV Production. 2018年4月1日閲覧。

参考文献

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  • Բարսեղյան Խ. Հ. (1986). "Արտաշես Կարինյան (Ծննդյան 100-ամյակի առթիվ)" (PDF) (ամսագիր) (4) (Պատմա-բանասիրական հանդես ed.). Երևան: Հայկական ՍՍՀ ԳԱ: 11–20. ISSN 0135-0536 {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  • Գալուստ Գալոյան (1961). "Արտաշես Կարինյան (Ծննդյան 75-ամյակի առթիվ)" (PDF) (ամսագիր) (12) (ՀՍՍՌ ԳԱ Տեղեկագիր հասարակական գիտությունների ed.). Երևան: Հայկական ՍՍՀ ԳԱ: 95–100. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
公職
先代
サルキス・アンバルツミャン
中央執行委員会議長
1925年6月24日 - 1928年7月
次代
サルキス・カシヤン
先代
アガシ・ヴァルダニャン
法務人民委員
1921年5月21日 - 1921年9月17日
次代
アレクサンドル・シャフヴェルジャン