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アリギバ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アリギバ
ᠷᠠᠵᠠᠪᠠᠭ
モンゴル帝国第11代皇帝(カアン
在位 天順元年9月10日 - 10月13日
1328年10月3日 - 11月14日
戴冠式 天順元年9月10日
(1328年10月3日)

出生 延祐7年(1320年)?
死去 天順元年10月13日
1328年11月14日)?
上都
家名 クビライ家
父親 イェスン・テムル
母親 バブカン
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天順帝 奇渥温阿剌吉八
第7代皇帝
王朝
都城 上都
陵墓 起輦谷(モンゴル高原
年号 天順 : 1328年

ラジバグモンゴル語: ᠷᠠᠵᠠᠪᠠᠭ, ラテン文字転写: Razibaγ)は、モンゴル帝国の第11代カアンとしては第7代皇帝)。

元史』などの漢文史料では阿里吉八(ālǐjíbā,アリギバ)などと記される[1]が、これはチベット語名がモンゴル語風に訛ったものである。実際に、14世紀に編纂された『フゥラン・テプテル』などのチベット語史書では(チベット語: ར་ཁྱི་ཕག, ラテン文字転写: Ra khyi phag[2]、17世紀に編纂されたモンゴル語史書『蒙古源流』でもᠷᠠᠵᠠᠪᠠᠭ
ᠷᠠᠴᠠᠪᠠᠭ
(Razibaγ,リギバ)と表記されており[3]、これに従ってラキパクとも表記される。治世の元号を取って天順帝と呼ばれることもある。

生涯

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傍系からカアンに即位した泰定帝イェスン・テムルの長男に当たり、弟にはパドマギャルポソセヨンダン・ジャンボらがいる。母のバブカンは長らくカアンの后妃を輩出してきた名門姻族コンギラト氏の出で、泰定元年3月20日1324年4月14日)に5歳で立太子された[4][5]。なお、イェスン・テムルは立太子の数日後に次男のパドマギャルポを晋王(ジノン=モンゴル高原の統括者)に任じ、また甥のバラシリオルドス高原のチャガン・ノールへ出鎮するよう命じており、クビライ時代に皇太子チンキム・安西王マンガラ・北平王ノムガンが大元ウルスの「三大王国」をそれぞれ治める体制への回帰(チンキムの立場がアリギバ、マンガラの立場がバラシリ、ノムガンの立場がパドマギャルポにそれぞれ相当する)を目指していたのではないかと推測されている[6]

致和元年7月1328年8月)、泰定帝が病により上都で崩御すると、泰定帝の寵臣であった中書左丞相ダウラト・シャーによってカアンに擁立され、9月に上都で即位した[7]

しかし泰定帝の急死は、仁宗アユルバルワダの治世から不遇をかこっていたことに対し不満を募らせていた武宗カイシャン派の軍閥たちの決起を促した[8]8月、もう一つの都である大都に駐留していたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルは反乱を起こして大都の政府機関を占拠し、武宗の遺児の擁立を呼びかけた。ダウラト・シャーは梁王オンシャン(天順帝の従兄)を平章政事、中書右丞相のタシュ・テムル中国語版を軍の司令官としてエル・テムルとの交戦の準備を進めた[9]

天順帝の即位と同じ9月、荊湖北道江陵にいた懐王トク・テムル(武宗の次男)が大都に迎え入れられ、天順帝に対抗してカアンを称した。天順帝を擁する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は潰走した[10]

10月になると内モンゴル東部を領する斉王オルク・テムルジョチ・カサルの子孫)が大都側について上都を囲み、天順帝とダウラト・シャーは完全に孤立した。ダウラト・シャーら上都側の首脳は大都軍に投降し、処刑された。天順帝も混乱の最中に没したが、どのような最期を遂げたかは不明である[11][9][12]

泰定帝の没後に起こったこれら一連のカアン位争いは、トク・テムルの立てた元号をとって「天暦の内乱」と呼ばれる。天順帝の死を知った上都側の支持者たちはエル・テムルに降伏する[12]が、天暦の内乱は終結を迎えず、トク・テムルとその兄のコシラの間で帝位を巡る対立が続くこととなる。

晋王カマラ家

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出典

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  1. ^ 「阿里吉八」の表記は『元史』巻107宗室世系表に拠る。なお、『元史』巻29泰定帝本紀では「阿速吉八(āsùjíbā)」と表記されているが、これは「阿剌吉八(ālàjíbā)」の誤記であると見る説が主流である(岡田2004,p157)
  2. ^ 佐藤/稲葉1964,80頁
  3. ^ 岡田2004,p157
  4. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年三月]丙午、御大明殿、冊八八罕氏為皇后、皇子阿速吉八為皇太子」
  5. ^ ドーソン 1971, p. 189
  6. ^ 牛根2007,88頁
  7. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[致和元年]九月、倒剌沙立皇太子為皇帝、改元天順、詔天下」
  8. ^ 杉山 1996, pp. 205–207
  9. ^ a b 井ノ崎 1960, p. 460
  10. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[歳戊辰]時倒剌沙在上都、立泰定皇帝子為皇帝、乃遣兵分道犯大都。而梁王王禅・右丞相答失鉄木児・御史大夫紐沢・太尉不花等、兵皆次于楡林、燕帖木児与其弟撒敦・子唐其勢等、帥師与戦、屡敗之。上都兵皆潰」
  11. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[歳戊辰]十月辛丑、斉王月魯帖木児・元帥不花帖木児以兵囲上都、倒剌沙乃奉皇帝宝出降、両京道路始通」
  12. ^ a b ドーソン 1971, p. 197

参考文献

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  • 井ノ崎隆興「天順帝(元)」『アジア歴史事典』 6巻、平凡社、1960年。 
  • 牛根靖裕「モンゴル時代オルドス地方のチャガン・ノール分地」『立命館史学』第28号、2007年
  • 岡田英弘『蒙古源流』刀水書房、2004年。 
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社〈講談社現代新書〉、1996年6月。 
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 3巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫〉、1971年6月。