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アストラハン・コサック軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴォルガ川の流域。アストラハン・コサックは当川の下流、アストラハンとサラトフの間に居住していた。
1818年のアストラハン・コサック軍の軍旗。
1862年のアストラハン・コサック軍のコサック大将。19世紀のアストラハン・コサックの軍服の定色は黄色で、当コサック軍に圧倒的に多かった「黄色人種」の代表、カルムイク人とその混血児の存在を強調する色であった。
1943年のアストラハン・コサックの臂章。

アストラハン・コサック軍ロシア語Астраханское казачье войскоウクライナ語Астраханське козацьке військо)は、1817年から1918年までヴォルガ川の下流、アストラハンの周辺に存在したロシア帝国コサック軍の一つである。ヴォルガ・コサックカルムイク人タタール人から編成されていた。

概要

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1556年モスクワ大公国アストラハン・ハン国を亡ぼし、自国の南方国境を警備する100人のヴォルガ・コサック番人衆をアストラハンに入れ置いた。約2世紀後、1737年4月1日にロシアの元老院の命により、番人衆に正教洗礼を受けた200人のカルムイク人が加えられ、カザフ人アディゲ人の侵入防止を任ぜられた。さらに、1750年3月28日に元老院は300人の番人衆を500人のコサック連隊へ再編し、ヴォルガ川の右岸、アスタラハンからチョールヌイ・ヤールまでの地域で居住させた。1801年にアストラハン・コサック連隊にツァリーツィンカムイシンサラトフのコサック番人衆と、ヴォルガ・コサックの残党、カルムイク人、タタール人も加わえられた。1806年にアストラハン・コサック連隊は3つの連隊[1] に分けられ、4つの地区で国境警備が任せられた。

1817年にアストラハン・コサックの3つの連隊は正式なアストラハン・コサック軍に再編成され、1818年に当コサック軍の初代軍長にはコサック階級のヴァシーリイ・スクヴォルツォーフが任命された。1833年にアストラハン・コサック軍はカウカズ軍団の管掌から離せられ、任命アタマンとしてのアストラハン県の県知事の支配下に置かれた。1872年にアストラハン・コサック軍は2つの地区に分けられ、3つの連隊から1つの騎兵連隊が構成された。

20世紀の始めにアストラハン・コサック軍は、ツァリーツィン、サラトフ、チェールヌィイ・ヤールとクラースヌイ・ヤールの周辺の4つの集落、16つのゲル型集落と57の村落に駐屯し、882,740ヘクタールの面積を有する土地を持っていた。1916年に女・子供を含むコサック軍の総人口は4万人ちかくであった。平時にはアストラハン・コサック軍が義務を果たすために4つの百人隊からなる1つの騎兵連隊と1つの親衛小隊を国家に出し、戦時には3つの騎兵連隊、1つの親衛小隊、1つの砲兵大隊、1つの特別百人隊と1つの予備百人隊、合わせて約2600人を出していた。

アストラハン・コサックは以下ほどの軍役に参陣していた。

アストラハン周辺のコサック番人衆として
アストラハン・コサック軍として

1917年ロシア革命後、ボリシェヴィキ政権が誕生すると、アストラハン・コサック軍は「反革命的」な組織と見なされ、弾圧を受けた。1918年2月にボリシェヴィキの赤軍がアストラハンを占領し、2月26日にボリシェヴィキ系のアストラハン軍事委員会会長のミーナ・アーリストフはアストラハン・コサック軍を廃止した。これによってアストラハンのコサックはドン地方ウラル地方へ逃亡し、白軍に加わって当地方で赤軍と戦った。1919年10月から11月にかけてコサックの一部は白軍によるアストラハンの戦いに参加したが、ボリシェヴィキに敗れた。1920年にアストラハン・コサック軍は事実上消滅した。弾圧と殺害を逃れたアストラハン・コサックの残党は1943年1945年ドイツ国防軍のコサック諸連隊に編成された。

指揮官・アタマン

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アストラハン・コサック連隊の指揮官
スロボードチコフ大佐 Слободчиков 1737年1761年
ガリーツィン百人隊長 Гальцин 1761年1764年
フトケーヴィチ大佐 Хуткевич 1764年1767年
スミルノーフ百人隊長 Смирнов 1767年1777年
グリゴリー・ペルシドスキー少佐 Григорий Васильевич Персидский 1777年1790年
ピョートル・スクラジンスキー准将 Пётр Михайлович Скаржинский 1790年1792年
パーヴェル・ポポフ准将 Павел Семёнович Попов 1792年1815年
ワシーリイ・スクヴォルツォーフ軍長 Василий Филиппович Скворцов 1815年1816年
ロマーン・バグラチオン大佐 Роман Иванович Багратион 1816年1818年
アストラハン・コサック軍の任命アタマン
ワシーリイ・スクヴォルツォーフ軍長 Василий Филиппович Скворцов 1818年1823年
パーヴェル・ペトローフ大佐 Павел Иванович Петров 1826年1835年
ワシーリイ・ノーソフ大佐 Василий Иванович Носов 1835年1836年
イヴァン・レヴェンシュテルン大佐 Иван Иванович Левенштерн 1836年1837年
エルンスト・フォン・デル・ブリッゲン少将 Эрнст фон дер Бригген 1838年1848年
アレクサーンドル・ヤフィモーヴィチ少将 Александр Матвеевич Яфимович 1848年1849年
ミハイール・ヴルーベリ少将 Михаил Антонович Врубель 1849年1857年
アレクサーンドル・テレペレフスキー少将 Александр Евгеньевич Терпелевский 1857年1858年
ニコラーイ・ベクレミーシェフ少将 Николай Петрович Беклемишев 1858年1862年
ミハイール・トルストーイ大佐 Михаил Павлович Толстой 1862年1864年
グレゴーリイ・モーロストフ大佐 Григорий Васильевич Молостов 1864年1867年
アレクサーンドル・グリケーヴィチ少将 Александр Васильевич Гулькевич 1867年1875年
K. フォッス少将 К. Ю. Фосс 1876年1880年
ニコラーイ・プロターソフ=フメーチェフ少将 Николай Алексеевич Протасов-Бахметев 1880年1882年
イェヴゲーニイ・ヤンコーフスキー少将 Евгений Осипович Янковский 1882年1883年
ニコラーイ・ツェーイメルン少将 Николай Максимович Цеймерн 1884年1888年
レオニード・ヴャーゼムスキー少将 Леонид Дмитриевич Вяземский 1888年1890年
ニコラーイ・テヴャーシェフ中将 Николай Николаевич Тевяшев 1890年1895年
ミハイール・ガーゼンカムプフ中将 Михаил Александрович Газенкампф 1895年1903年
ブロニスラーフ・グロムブチェーフスキー少将 Бронислав Людвигович Громбчевский 1903年1906年
イヴァン・ソコロフスキー中将 Иван Николаевич Соколовский 1906年1917年
イヴァン・ビリュウコーフ少将 Иван Алексеевич Бирюков 1917年1918年
アストラハン・コサックのアタマン
ニコラーイ・リャーホフ少将 Николай Васильевич Ляхов 1943年1945年

脚注

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  1. ^ 第1アストラハン・コサック連隊、第2アストラハン・コサック連隊、第3アストラハン・コサック連隊。

参考文献

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外部リンク

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