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アシャ・ブカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アシャ・ブカ1263年 - 1309年)は、大元ウルス中期の重臣。モンゴル帝国によって滅ぼされたカンクリ部王族の出身であった。キプチャクハラチン)軍団を率いたトトガク、グユクチ軍団を率いたミンガンと並び、シバウチ(鷹匠)軍団を率い主にモンゴル帝国の内戦で活躍したことで知られる。

元史』などの漢文史料では阿沙不花(āshā bùhuā)と表記される。

概要

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先祖

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アシャ・ブカの先祖は中央アジアの遊牧部族であるカンクリ部の王族であった。チンギス・カンがカンクリ部を征服した時、アシャ・ブカの祖母のクマル(Qumar>苫滅古麻里/shànmiè gǔmálǐ)は夫を失いまだ幼いクルク(曲律)・イェイェ(牙牙)という2人の息子とともに取り残され、行き場を失った母子はモンゴル帝国を頼ることを決めた。クマルは2子を連れて東方への旅を始め、数か国を経てモンゴル高原に至った。時にチンギス・カンが崩御してオゴデイが即位しており、クマルは持てる物全てを献上してモンゴル帝国に仕えることを望んだ。オゴデイは母子を気に入り、邸宅を授けて仕えることを許した[1]

母子が移住してから2年経ち、モンゴルによる金朝平定が完了した頃、クマルは西方の母国に帰国することを願い出た。 オゴデイが何故今になって帰国を願い出たのか尋ねると、クマルは「臣は昔主君を失って国が乱れたため、遠く陛下の下まで来帰しました。今や陛下の威徳により諸国は既に平定されたと聞き、故郷に帰り一族の墳墓を守りたいと思っております。ただ私には2人の息子がおり、愚かにして無知ではありますが、陛下の下に留めて仕えさせたく思います」と答えた。オゴデイは母の言葉を大いに喜び、兄弟をケシクテイ(宿衛)に加えて厚遇するようになった。それから13年後、クマルは再び東方を訪れたが、この頃兄弟はモンケの四川親征に従軍していた。そこで兄弟が一時カラコルムに帰還した頃、モンケが急死してしまい遠征軍はバラバラになって帰国を始めた。兄弟のうち、クルクには子がいなかったがイェイェには6人の子供がおり、特にアシャ・ブカとトクトの兄弟が著名であった[2]

クビライの治世

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アシャ・ブカは14歳の時にクビライのケシクテイ(宿衛)に入り、クビライは土田や奴隷を与えて興和の天城に住まわせた。この頃、チベットからの使者が訪れたが、後日この件について大臣に尋ねたが答えられる者がおらず、アシャ・ブカのみが詳細にその時のやり取りを報告するという逸話があったと伝えられている。また、ある時アシャ・ブカが入朝する前に草についた露で足を洗っており、これを見たクビライがアシャ・ブカを宮中に入れないよう命じることがあった。事を知ったアシャ・ブカは家に帰らず水竇に入ったため、クビライが理由を尋ねたところ、「陛下の側近く侍ることができないのに、どこに帰れましょうか」と答え、クビライはこの言葉に大いに喜んだという。これ以後、アシャ・ブカは「4ケシク」の兵器と門の管理を任せられ、任務を完璧にこなしたためクビライに重用されるようになっていった[3]

至元24年(1287年)、ナヤンの叛乱が起こった時、ナヤア(納牙)ら多くの諸王がこれに呼応した。これを受けてクビライが配下の諸将に対処策を問うた所、アシャ・ブカは自ら諸王の下を訪れて説得することを申し出た。ナヤアの下に辿り着いたアシャ・ブカは「ナヤンは既に使者を派遣して帰服しており、今や大王一人が主上に抗っている状態です。幸いにして陛下は聖明にして叛乱に与したことが大王の本意ではないことを知っておられますので、不問とされるでしょう」と虚言でもってナヤアの投降を誘い、ナヤアが投降を決意したことでクビライは反乱軍の陣容を知ることができた。アシャ・ブカがクビライの下に帰還した後、クビライ自らの親征が決められ、アシャ・ブカは遼陽で徴兵し、千戸(ミンガン)としてシバウチ軍団を率い従軍するよう命じられた[4]

ナヤンの乱の平定後、アシャ・ブカは大同興和両郡境域内に数十里の土地を賜り、また民100万も与えられて芝軍団の牧地を形成した。その後、クビライは興和・桃山の数十の村の民を強制移住させて一帯を芝軍団の牧地としようとしたが、アシャ・ブカの請願により3千戸が 「鷹食を給する戸」として残されることになった[5]。アシャ・ブカのおかげで移住を免れた住民はこれを徳とし、飲食の際にはアシャ・ブカを祭るようになったという[6][7]

至元30年(1293年)、中央アジアを支配するカイドゥが攻勢を始め、これに対処するために皇太子テムルがモンゴル高原に派遣された。アシャ・ブカもこれに従軍し、ハンガイ地方での戦闘に功績があった[8]。この時テムルに同行した将軍には、アシャ・ブカも含めオルジェイクルムシユワスらナヤンの乱平定戦時もテムルの配下にあった者が多く、これらの者達がテムル即位の際に支持母体となったと考えられている[9][10]

テムルがオルジェイトゥ・カアン(成宗)として即位した後、海商の朱清張瑄が密告によって失脚する事件が起き、これに連座して兵馬都指揮使の忽剌朮も彼等から賄賂を受け取っていたとして処刑された。この時、アシャ・ブカは命を受けて実状の調査を行い、功績により邸宅と鈔15,000緡を下賜され、両城兵馬都指揮使事の地位を授けられた。また、モンゴル高原駐屯軍がドゥアに大敗したことを切っ掛けに皇族のカイシャン(後の武宗クルク・カアン)が新たな総司令官に任命されると、アシャ・ブカは自らの弟のトクトを従軍する将として推薦し、これ以後トクトはカイシャンの側近として活躍するようになる[11]

武宗擁立

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大徳11年(1307年)、オルジェイトゥ・カアンが亡くなった後、自らの権力を失うことを恐れた皇后ブルガン・カトンは右丞相のアグタイや諸王メリク・テムルと組んで安西王アナンダを次の皇帝に擁立しようと企てた。これに対し、左丞相のハルガスンはブルガン・カトンと対抗してカイシャンを擁立しようとしており、カイシャンの部下でアシャ・ブカの弟でもあるトクトを使者として派遣しようとしたが、カンクリ部のジルカランらがモンゴル高原との使者のやり取りを妨げようとした[12][13]

事情を知ったアシャ・ブカは昨日署名したという形で文書を発給し、これによってトクトは無事モンゴル高原のカイシャンの下に赴くことができた。一方、より近くにいたカイシャンの弟のアユルバルワダは先に大都に至り、アシャ・ブカを含む支持者と共にブルガン・カトンらに対してクーデターを実施した。この時、アシャ・ブカはハルガスンに対して「先んじる者は勝ち、後れる者は敗れるものです」と述べて一刻も早く行動を起こすことを進言し、ハルガスンらはこの進言に従ってクーデターを強行した結果、ブルガン・カトンや安西王らを捕縛することに成功した[14]

アグタイ丞相らは上部に送られて処刑されアユルバルワダ一派が実権を握ったものの、今度は北方で強大な武力を有するカイシャンとの関係が微妙となった。カイシャンはアユルバルワダ一派に対してアシャ・ブカを使者として派遣するよう要求したため、アシャ・ブカは衣帽をつけて北方に赴き、サアリ・ケエル(野馬川)でカイシャンに謁見した。アシャ・ブカはアユルバルワダの意志と大都でのクーデターの経緯を語り、「太子(アユルバルワダ)が監国しているのは問題が起こることに備えているためであって、陛下(カイシャン)が来られることを待っています。その他の意図はないことを命にかけて保証します」と語った。これを聞いてカイシャンは大いに喜び、自らの衣を脱いで下賜し、中書平章政事の地位を授けた。また、アシャ・ブカはこの時一連の内紛で功績のあった10人を推挙し、彼らも兵馬指揮に任じられている。そしてアシャ・ブカはカイシャンの詔を受けて葡萄酒を携え、首都に帰還してアユルバルワダらに迎え入れられた[15]

カイシャンの治世

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その後、遂にカイシャンは上都に入ってクルク・カアンとして即位し、アシャ・ブカに太尉の称号を加えた。また丞相タシュ・ブカを大都に派遣して叛乱に与したナンギャジン(嚢加真)ら30人余りを釈放させている。また、クルク・カアンは国庫から金を出し諸王・近戚・近侍らに分け与えようとしたが、アシャ・ブカは様子がおかしい者を見つけ、彼が黄金50両・白金100両を盗んでいたことを突き止めた。これを知ってクルク・カアンは盗みを働いた者を処刑し、盗まれた黄金・白金をアシャ・ブカに与えようとしたが、アシャ・ブカはこれを金を受け取ることを辞退しその代わり盗人を助命するよう申し出、受け入れられたという。また、クルク・カアンはある時蹴鞠をする者を見て50万を下賜しようとしたが、アシャ・ブカは「蹴鞠をしているだけで賞賜を受けるようでは、奇抜なことをする者が日増しに増え、逆に賢人は日に日にいなくなるでしょう」と諫め、クルク・カアンも進言を認めて下賜をやめたという[16]

カイシャンが丞相のタシュ・ブカ、サンバオヌら近侍とともに五花殿を訪れた時、アシャ・ブカはクルク・カアンの容色が優れないことに気づき、無理をせず療養するよう進言した。これを聞いたクルク・カアンは大いに喜び、アシャ・ブカの地位を開府儀同三司・中書右丞相・行御史大夫とした[17]

この時アシャ・ブカは広武康里侍衛親軍都指揮使の地位を授かり、カンクリ人で構成された部隊(康里衛)を率いることになった。 ただし、同じような性格を持つ欽察(キプチャク)衛・唐兀(タングート)衛は既にクビライ時代から存在しており、「康里衛」は皇帝の最側近であるアシャ・ブカのために特設されたものとみられる[18]。その後、国家の軍事を掌る知枢密院事に任命されたものの、間もなく至大2年(1309年)10月に47歳にして亡くなった[19]。アシャ・ブカの死後、クルク・カアンも急死し(アユルバルワダ一派に毒殺されたとみられる)、拠り所を失った 「康里侍衛親軍(カンクリ軍団)」も廃止されるに至った[20]

家族

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アシャ・ブカの死後、継室である別哥倫氏は30年に渡って寡居を貫き、華美な服装を避け、妄りに笑うことなく余生を送ったとされる[21]

アシャ・ブカの息子の伯嘉訥も高官となり、翰林侍読学士の地位まで至っている[22]

カンクリ部クリシュ家

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  • クリシュ(Quriš >虎里思/hǔlǐsī)
    • キシリク(Kišilig >乞失里/qǐshīlǐ)
      • クルク(Külüg >曲律/qūlǜ)
      • イェイェ(Yeye >牙牙/yáyá)
        • ブベセル(Böbeser >孛別舎児/bóbiéshèér)
        • ホチキ(Hočiki >和者吉/hézhějí)
        • ブベク(Böbek >不別/bùbié)
        • オトマン(Otoman >斡禿蛮/wòtūmán)
        • アシャ・ブカ(Aša buqa >阿沙不花/āshā bùhuā)
        • トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
          • バアトル(Ba’atul >覇都/bàdōu)
          • テムル・タシュ(Temür taš >鉄木児塔識/tiěmùér tǎshì)
          • オズグル・トカ(Ozghur toqa >玉枢虎児吐華/yùshūhǔértǔhuá)
            • バアトル(Ba’atul >抜都児/yùshūhǔértǔhuá)
              • オルジェイ・テムル(Öljei temür >完者帖木児/ālǔhuī tièmùér)
            • ネウリン(Neülin >紐璘/niŭlín)
          • タシュ・テムル(Taš temür >達識帖睦邇/dáshì tièmùěr)
          • カダ・ブカ(Qada buqa >哈不花/wòtūmán)
          • アルグ・テムル(Aruγ temür >阿魯輝帖木児/ālǔhuī tièmùér)
          • トレ(Töre >脱烈/wòtūmán)
            • 長寿安
        • カダ・テムル(Qada temür >哈達帖木児/hādá tièmùér)
          • 万僧
        • オンギャヌ(汪家閭/wāngjiālǘ)
          • ボロト・テムル(Bolod temür >博羅帖木児/bóluó tièmùér)

脚注

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  1. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「阿沙不花者、康里国王族也。初、太祖抜康里時、其祖母苫滅古麻里氏新寡、有二子、曰曲律・牙牙、皆幼、而国乱家破無所依、欲去而帰朝廷、念無以自達。一夕有数駝皆重負突入営中、駆之不去。旦乃繋駝営外、置所負其旁、夜復納営中、候有求者帰之。如是十餘日、終無求者。乃発視其装、皆西域重宝。驚曰『殆天欲資我而東耶、不然、此豈吾所宜有』。遂駆馳載二子越数国至京師。時太祖已崩、太宗立、尽献其所有、帝深異之、命有司治邸舎・具廩餼以居焉」
  2. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「居二年、聞国中已定、謁帝欲帰。帝曰『汝昔何為而来、今何為而去?』且問其所欲。対曰『臣妾昔以国乱無主、遠帰陛下、今頼陛下威徳、聞国已定、欲帰守墳墓耳。妾惟二子、雖愚無知、願留事陛下』。帝大喜、立召二子入宿衛、而礼遣之。後十三年復来、則二子已従憲宗伐蜀矣。逮至和寧、聞憲宗崩、諸将皆還、而二子独後、心方以為憂。過一古廟、因入禱焉、若聞神語、連称『好好』而不知其故、問其国人通漢語者、知為吉語。還至舎、則二子已至矣。遂留居焉」
  3. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「曲律無子。牙牙後封康国王、生六子、阿沙不花最賢、年十四、入侍世祖。世祖賜土田・給奴隷、使居興和之天城。会西蕃遣使者有所奏請、既諭遣之、後数日、帝問近侍諸大臣曰『前日西使何請、朕何辞以遣』。諸大臣莫能対、阿沙不花従旁代対甚詳悉。帝因怒諸大臣曰『卿等任天下之重、如此反不若一童子耶』。嘗扈従上都、方入朝、而宮草多露、跣足而行、帝御大安閣、望而見之、指以為侍臣戒。一日、故命諸門衛勿納阿沙不花。阿沙不花至、諸門衛皆不納、乃従水竇中入。帝問故、以実対、且曰『臣一日不入侍、身将何帰』。帝大悦、更諭諸門衛聴其出入。命飭四宿衛兵器、無敢或慢、復使掌門、無取闌入。帝曰『可用矣』」
  4. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「乃顔叛、諸王納牙等皆応之。帝問計将安出、対曰『臣愚以為莫若先撫安諸王、乃行天討、則叛者勢自孤矣』。帝曰『善、卿試為朕行之』。即北説納牙曰『大王聞乃顔反耶』。曰『聞之』。曰『大王知乃顔已遣使自帰耶』。曰『不知也』。曰『聞大王等皆欲為乃顔外応、今乃顔既自帰矣、是独大王与主上抗。幸主上聖明、亦知非大王意、置之不問。然二三大臣不能無惑、大王何不往見上自陳、為万全計』。納牙悦許之。於是諸王之謀皆解。阿沙不花還報、帝乃議親征、命徴兵遼陽、以千戸帥昔宝赤之衆従行」
  5. ^ 杉山2004,341頁
  6. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「及乃顔平、阿沙不花以大同・興和両郡当車駕所経有帷台嶺者、数十里無居民、請詔有司作室嶺中、徙邑民百戸居之、割境内昔宝赤牧地使耕種以自養、従之。阿沙不花既領昔宝赤、帝復欲尽徙興和・桃山数十村之民、以其地為昔宝赤牧地。阿沙不花固請存三千戸以給鷹食、帝皆聴納。民徳之、至今飲食必祭」
  7. ^ 片山1982,70頁
  8. ^ 吉野2009,42頁
  9. ^ 吉野2009,43-46頁
  10. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「至元三十年、海都叛、成宗以皇孫撫軍於北。阿沙不花従行、踰金山戦杭海有功」
  11. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「成宗即位、会大宗正札魯火赤脱児速以贓汚聞、詔鞫問之、脱児速伏罪、就命代之。成宗目之曰阿即剌。阿即剌、訳言閻羅王也。有訴朱清・張瑄陰私、既抵罪、帝遣兵馬都指揮使忽剌朮籍没其家、以受賂誅。更命阿沙不花往、具以実聞、賜宅一区・鈔万五千緡、兼両城兵馬都指揮使事。武宗時為懐寧王、総軍漠北、問『今日材可大用者為誰』。対曰『母弟脱脱将相才也、無以易之』。遂命従行、後果為名臣」
  12. ^ 宮2018,746頁
  13. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「成宗崩、安西王阿難答乗間謀継大統、成后及丞相阿忽台・諸王迷里帖木児皆陰為之助。時武宗猶在北辺、太后及仁宗亦在懐孟未至。適武宗遣脱脱計事京師、丞相哈剌哈孫令急還報武宗、而成后已密諭通政使只児哈郎止其駅馬」
  14. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「阿沙不花知事急、与同知通政院事察乃謀、作先日署文書給馬去。只児哈郎聞脱脱已去、方詰問吏、閲案牘乃止。太后及仁宗既至京師、有言安西王謀以三月三日偽賀仁宗千秋節、因以挙事者。阿沙不花言之哈剌哈孫、且曰『先人者勝、後人者敗。后一垂簾聴政、我等皆受制於人矣、不若先事而起』。哈剌哈孫曰『善』。乃前二日白仁宗、詐称武宗遣使召安西王計事、至即執送上都。尽誅丞相阿忽台以下諸姦臣。与哈剌哈孫皆居禁中」
  15. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「仁宗以太子監国、遣使北迎武宗、而武宗遅廻不進、遣使還報太后曰『非阿沙不花往不可』。乃遣奉衣帽・尚醞以往、至野馬川、見武宗、備道両宮意、及陳安西王謀変始末、且言『太子監国所以備他変、以待陛下、臣万死保其無他』。武宗大悦、解衣衣之、拝中書平章政事、軍国大事並聴裁決。因奏平内難之有功者燕只哥以下十人為兵馬指揮・為直省舎人。詔先奉葡萄酒及錦綺還報両宮。仁宗即日率群臣出迎」
  16. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「武宗入上都、加阿沙不花特進・太尉、依前平章政事。命与丞相塔思不花還京師治安西王党、諸連坐嚢加真等三十餘人、皆釈之。嘗命出太府金分賜諸王貴戚及近侍、方出朝、見一人倉皇若有所懼状、曰『此必盗金者』。召詰問之、果得黄金五十両・白金百両以聞、就以金賜之、命誅盗者。辞曰『盗誅固当、金非臣所宜得、願還金以贖盗死』。帝悦而従之。有近臣蹴鞠帝前、帝即命出鈔十五万貫賜之。阿沙不花頓首言曰『以蹴鞠而受上賞、則奇技淫巧之人日進、而賢者日退矣、将如国家何。臣死不敢奉詔』。乃止」
  17. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「帝又嘗御五花殿、丞相塔思不花・三宝奴、中丞伯顔等侍。阿沙不花見帝容色日悴、乃進曰『八珍之味不知御、万金之身不知愛、此古人所戒也。陛下不思祖宗付託之重、天下仰望之切、而惟麹糵是沈、姫嬪是好、是猶両斧伐孤樹、未有不顛仆者也。且陛下之天下、祖宗之天下也、陛下之位、祖宗之位也、陛下縦不自愛、如宗社何』。帝大悦曰『非卿孰為朕言。継自今毋愛於言、朕不忘也』。因命進酒。阿沙不花頓首謝曰『臣方欲陛下節飲而反勧之、是臣之言不信於陛下也、臣不敢奉詔』。左右皆賀帝得直臣。遂進開府儀同三司・中書右丞相・行御史大夫」
  18. ^ 井戸1983,58頁
  19. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「俄復平章政事・録軍国重事、兼広武康里侍衛親軍都指揮使、封康国公。有以左道惑衆者、諸世臣大家多信趨之、竟置于法。遷知枢密院事。以至大二年十月薨于位、年四十七。至正元年、贈純誠一徳正憲保大功臣・開府儀同三司・中書右丞相・上柱国、追封順寧王、諡忠烈」
  20. ^ 井戸1983,58頁
  21. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「其継室別哥倫氏、亦有至行、寡居三十年、未嘗妄言笑、身不服華綵。詔旌其門、与元配達海的斤氏並封順寧王夫人」
  22. ^ 『元史』巻136列伝23阿沙不花伝,「子伯嘉訥、廉直剛敏、憂国如憂家。嘗為京尹、屯儲衛誘小民梅凍児誣首海商一百十有六人為盗而掠其貲、獄具、械送刑部、命伯嘉訥審録之、尽得其冤状、白丞相釈之、還其貲。後遷翰林侍読学士」

参考文献

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  • 片山共夫「元朝の昔寶赤について:怯薛の二重構造を中心として」『九州大学東洋史論集』10、1982年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 吉野正史「ナヤンの乱における元朝軍の陣容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』、2008年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱: 二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 元史』巻136列伝23阿沙不花伝
  • 新元史』巻200列伝97阿沙不花伝