アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1722-1758)
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アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン August Wilhelm von Preußen | |
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出生 |
1722年8月9日 神聖ローマ帝国 ( プロイセン王国) ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン |
死去 |
1758年6月12日(35歳没) 神聖ローマ帝国 ( プロイセン王国) ブランデンブルク選帝侯領、オラニエンブルク宮殿 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ( プロイセン王国) ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン大聖堂 |
配偶者 | ルイーゼ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 |
母親 | ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー |
アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(ドイツ語: August Wilhelm von Preußen, 1722年8月9日 - 1758年6月12日)は、プロイセン王国の王族・軍人。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の五男で、フリードリヒ2世の弟、またフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の父。
生涯
[編集]フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とその妃であったイギリス王ジョージ1世の王女ゾフィー・ドロテア(1687年 - 1757年)の間に第11子として、1722年8月9日にベルリンで生まれた。1744年には息子がいなかったフリードリヒ2世の王太弟としてプリンツ・フォン・プロイセンに叙された。
第二次シュレージエン戦争に参戦し、1745年6月のホーエンフリートベルクの戦いで戦功を挙げたが、七年戦争ではツィッタウから撤退したことでフリードリヒ2世の不興を買い、軍務から引退することとなった[1]。
兄よりも早く1758年6月12日に薨去したため、自身が王位に即くことはなかった。歿地はオラニエンブルク宮殿(ブランデンブルク州オラニエンブルク)で、墓所はベルリン大聖堂にある。
薨去後の1769年、フリードリヒ2世との文通が出版された[1]。
結婚と子女
[編集]1742年1月6日に、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘で、フリードリヒ2世の王妃エリーザベト・クリスティーネの妹でもあるルイーゼ・アマーリエ(1722年 - 1780年)と結婚し、以下の3男1女をもうけた。
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(1744年 - 1797年) - プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
- フリードリヒ・ハインリヒ・カール(1747年 - 1767年)
- フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ(1751年 - 1820年) - オランダ総督・オラニエ公ウィレム5世妃
- ゲオルク・カール・エミール(1758年 - 1759年)
出典
[編集]- ^ a b Ripley, George; Dana, Charles A., eds. (1879). The American Cyclopædia (英語). Vol. II. p. 109. .