アイルズフォードの戦い
アイルズフォードの戦い | |||||||
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アングロ・サクソン人のブリテン入植中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
アングロ・サクソン人 | ブリトン人 | ||||||
指揮官 | |||||||
ヘンギスト ホルサ † |
ヴォーティガン(諸説あり) ヴォーティマー カーティガン † | ||||||
戦力 | |||||||
不明 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
不明 | 不明 |
アイルズフォードの戦い (英語: Battle of Aylesford)は、455年にブリトン人とアングロ・サクソン人が衝突したとされる戦闘。『アングロサクソン年代記』と『ブリトン人の歴史』が伝えるところでは、アングロ・サクソン人の指導者はヘンギストとホルサの兄弟で、ブリトン人側の指導者はヴォーティガンだったとしているが、いずれの史料も勝敗を伝えていない。戦場となったのはÆglesthrepという地の付近で、現在のケントのアイルズフォード (古英語: Æȝelesford) に比定されている。
概要
[編集]アングロサクソン年代記によると、455年にアングロ・サクソン人の指導者ヘンギストとホルサと、ブリトン王ヴォーティガンが戦った。ホルサが戦死したものの、ヘンギストとその息子オイスクがケント王位を獲得した。
- Her Hengest 7 Horsa fuhton wiþ Wyrtgeorne þam cyninge, in þære stowe þe is gecueden Agælesþrep, 7 his broþur Horsan man ofslog; 7 æfter þam Hengest feng to rice 7 Æsc his sunu.
- この年、ヘンギストとホルサはウルトガン王(ヴォーティガン)と、Agælesþrepという地で戦った。弟のホルサはそこで殺され、ヘンギストはその後息子のエスク(オイスク)とともに王国を得た[1]。
9世紀に成立した『ブリトン人の歴史』では、アイルズフォードの戦いに関する説が紹介されている。第43-45章では、ヴォーティガンではなくその息子ヴォーティマー(Vortimer)がサクソン人に対して反旗を翻し、4度にわたって戦ったとされている。その中で3度目の戦闘は「その浅瀬、彼らの言葉ではエプスフォード(Epsford)というが、我々の言葉ではSet thirgabail.と呼ぶところ」で行われた[2]。この戦いでホルサと、ヴォーティマーの兄弟カーティガンが死んだ。『ブリトン人の歴史』ではこの戦闘自体の勝敗を語らず、その代わりにヴォーティマーの戦争を通してサクソン人が「ある時は勝利して領土を広げ、またある時は征服され押し戻された」と記録している[2]。また『歴史』の中では、4度目の「ガリアの海の海岸線のストーンに近いところ」で行われた戦闘でブリトン人が勝利し、サクソン人を追い払ったという記述がある[2]。しかしヴォーティマーは間もなく没し、ブリトン人の優勢は短期間に終わった。なおアングロサクソン年代記の記録はブリトン人に厳しく、457年にクレイフォードでヘンギストとオイスクが血なまぐさい勝利を挙げた後、ブリトン人はケントを見捨てざるを得なくなった、と述べている[3]。
アイルズフォードの近くに、キッツコティハウスとホワイトホースストーンという2つの新石器時代の墓の遺跡が残っている。地元では、これらはそれぞれアイルズフォードの戦いで戦死したカーティガンとホルサの墓であると伝承されている。
脚注
[編集]- ^ Anglo-Saxon Chronicle, 455.
- ^ a b c Historia Brittonum, ch. 43–45.
- ^ Anglo-Saxon Chronicle, 457.
参考文献
[編集]- Bately, Janet M. (1986). The Anglo-Saxon Chronicle: A Collaborative Edition. Vol. 3: MS. A. Cambridge.. Cambridge: D.S. Brewer. ISBN 0-85991-103-9