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アイリーン・スタンリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1922年の市販楽譜「Carolina in the Morning」の表紙に描かれたスタンリー。

アイリーン・スタンリー(Aileen Stanley、本名:モード・エルシー・アイリーン・マガリッジ、Maude Elsie Aileen Muggeridge、1897年 - 1982年3月24日)は、アメリカ合衆国ポピュラー音楽歌手

生い立ち

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アイリーン・スタンリーは、本名をモード・エルシー・アイリーン・マガリッジといい、イリノイ州シカゴに生まれ、子どものころから、夫に先立たれ未亡人となっていた母親に勧められて、兄スタンリー (Stanley) と一緒に、スタンリー・アンド・アイリーンとしてヴォードヴィルで歌ったり、踊ったりしていた。兄がヴォードヴィルに出演するのを止めた後も、アイリーンはソロでの活動を続け、それまでの兄と一緒の名義の前後を入れ替えて新たな芸名とした。

初期の録音

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スタンリーは、ヴォードヴィルやキャバレーに出演した。1920年代には、ニューヨーク市においてレヴュー・ショー『Silks And Satins』で注目され、この年に制作することになった数多くのレコードの最初の1枚を録音することになった。1920年代に彼女が吹き込んだレコードの大部分はビクタートーキングマシンのものであったが、エジソン・レコード (Edison Records)、パテ・レコード (Pathé Records)、オーケー・レコード (Okeh Records)、ブランズウィック・レコード (Brunswick Records)、ヴォカリオン・レコード (Vocalion Records)、ジェネット・レコード (Gennett Records) など、ニューヨーク市一帯に録音スタジオを構えていた他のレコードレーベルにも録音が残された。当時、彼女のレコードは、ほとんどが好調な売れ行きをみせた。

スタンリーは、アフリカ系アメリカ人のアーティストたちを取り上げると思われていたブラック・スワン・レコード (Black Swan Records) にも、メイミー・ジョーンズ (Mamie Jones)、ジョージア・ゴーラム (Georgia Gorham) といった変名で吹き込みをしていた[1]。彼女のブルース曲の扱い方は、当時の北部の黒人ヴォードヴィル歌手たちに、よく似たものであった。彼女の出演を告げるビラなどには、「ザ・フォノグラフ・ガール (The Phonograph Girl)」とか「パーソナリティのある少女 (The Girl With The Personality)」といった謳い文句が用いられていた。後年、スタンリーは、「I'll Get By (As Long as I Have You)」は自分のために書かれた曲だ、と言っていたとされる。

ビクターでの録音

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スタンリーは、1925年にビクターで吹き込んだ曲のひとつ「When My Sugar Walks Down the Street」で、新人だったジーン・オースティン (Gene Austin) と一緒に歌い、オースティンの華々しい経歴の始まりを手助けした[2][3]

スタンリーは、J・ラッセル・ロビンソン (J. Russel Robinson) とコン・コンラッド (Con Conrad) が1920年に書いたジャズスタンダード曲「Singin' the Blues」を吹き込み、レコード番号 Victor 18703 としてリリースした。また、ポール・ホワイトマン (Paul Whiteman) とフレッド・ローズが作曲した「Flamin' Mamie」を、ビリー・ユーク・カーペンター (Billy "Uke" Carpenter) によるウクレレと(息を吸いながら声を出す eefing などの技巧を使った)「ジャズ効果 (jazz effects)」の伴奏で、1925年10月5日に録音し、Victor 19828-A としてリリースした。1920年代後半、ビクターは、スタンリーとビリー・マレイにデュエットを組ませ、一連のヒット作を制作した。

後年

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スタンリーは、証券市場に多額の投資をしており、一生の蓄えを1929年株式大暴落によって失ったひとりであったとされている。1931年ころ、スタンリーはロンドンへ移り住み、1934年から1937年にかけて、HMVで多数のレコードを吹き込んだ。後に内緒話として打ち明けた所によると、1931年にファーネス子爵夫人テルマ・ファーネスの邸宅で、ウォリス・シンプソンウィンザー公爵エドワード王子(後のイギリス国王エドワード8世)を紹介して、知らぬ間に、自らの(エドワードへの)思いを終わらせることになってしまった、という[4]。さらに後年の彼女は、歌唱法を指導する教師、指導者として働いた。スタンリーは、カリフォルニア州ロサンゼルスで没した。

出典・脚注

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  1. ^ Discographical Breakthrough: Another “White” Black Swan Identified”. Mainspring Press (2012年6月27日). 2013年12月14日閲覧。
  2. ^ Shilkret, Nathaniel, ed. Niel Shell and Barbara Shilkret, Nathaniel Shilkret: Sixty Years in the Music Business, Scarecrow Press, Lanham, Maryland, 2005, pp. 73--74. ISBN 0-8108-5128-8
  3. ^ Lornell, Kip; Laird, Tracey E.W. (2008). Shreveport sounds in black and white. University Press of Mississippi. p. 242. ISBN 1-934110-42-6. https://books.google.co.uk/books?id=PzbYj-kKjXIC&pg=PA242&dq=When+My+Sugar+Walks+Down+the+Street&hl=en#v=onepage&q=When%20My%20Sugar%20Walks%20Down%20the%20Street&f=false 2013年12月14日閲覧。 
  4. ^ 通説では、エドワードの愛人であったテルマが、シンプソン夫人をエドワードに引き合わせたとされる。

外部リンク

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