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青山なを

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青山 なを
1928年2月
人物情報
生誕 (1900-07-09) 1900年7月9日
日本の旗 日本東京府東京市本所区
死没 (1985-08-01) 1985年8月1日(85歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京女子大学国文科
東北帝国大学法文学部
学問
研究分野 女性史
近代女子教育史
研究機関 東京女子大学
梅花女学院大学
学位 文学博士(1971年・東北大学
影響を受けた人物 安井てつ
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青山 なを(あおやま なお、1900年明治33年〉7月9日[1] - 1985年昭和60年〉8月1日 [2])は、日本の文学博士で日本女性史の研究者。

生涯

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1900年三浦助次郎と静の次女として東京府東京市本所区[2]花町(現:東京都墨田区四丁目)に生まれる。東京女子高等師範学校付属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)から、東京女子大学国文科へ進み、1923年に卒業する[2]。在学中に、垣内松三沼波瓊音の薫陶を受け、学問史への関心を深めていく。

1928年東北帝国大学法文学部に入学[3]村岡典嗣を指導者として日本思想史を研究。1931年学士試験に合格[4]し、その後、大学院に進学して日本女性精神史を研究する。

安井てつの勧めで、東京女子大学講師に就任。国語専攻部で教えながら、『万葉集』、『源氏物語』、『平家物語』、近松門左衛門等の諸作品における女性観を研究する。

1933年青山嶺次と結婚し青山姓になる。1940年に夫の転勤のために、大学を辞めて兵庫県西宮市に移る。1942年に東京に戻り、太平洋戦争終結後の1946年に東京女子大学に復職する。1948年新制大学になると文学部史学科助教授に就任[2]、1950年には教授[2][5]、1957年より付属比較文化研究所所員を兼任[2]。1966年に東京女子大学を退職した[2]。1969年から梅花女学院大学教授[2][5]

1946年に東京女子大学同窓会の委嘱により、『安井てつ伝』を執筆。それ以降、近代女子教育史を研究し、福沢諭吉森有礼中村正直らの『明六雑誌』における女性観研究、木村熊二夫妻、巌本善治をめぐる明治女学校の研究をする。1971年に「明治女学校の研究」により、東北大学から文学博士学位を授与される[6]

1985年死去。臨終洗礼を受け、マリアの洗礼名を受けた[5]。1986年女性史研究奨励のために「青山なを記念基金」が遺言により設けられ[5]、優れた女性史の業績に対して『女性史青山なを賞』が与えられることとなった[7][8]

著作

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  • 『青山なを著作集』(慶應通信)1982年 - 1984年
    • 1巻『源氏物語研究および古典諸論』
    • 2巻『明治女学校の研究』
    • 3巻『安井てつと東京女子大学』
    • 4巻『小論と随想』
    • 別巻『若き日のあゆみ 師沼波瓊音のことなど』
  • 安井てつ傳』(岩波書店)1949年
  • 『伝記・安井てつ』(大空社)1990年

編書

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  • 『安井てつ先生追想録』(安井てつ先生記念出版刊行会)1966年

脚注

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  1. ^ 日本著作権協議会 編『文化人名録 昭和32年版(著作権台帳6版)』日本著作権協議会、1957年、301頁。 
  2. ^ a b c d e f g h 青山 なを”. 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(コトバンク). 2019年10月12日閲覧。
  3. ^ 『東北帝国大学一覧 自昭和3年至昭和4月』東北帝国大学、1928年12月8日、449頁。NDLJP:1448276/234 
  4. ^ 『東北帝国大学一覧 自昭和7年至昭和8年』東北帝国大学、1932年12月28日、462頁。NDLJP:1448317/242 
  5. ^ a b c d 青山なを”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク). 2019年10月12日閲覧。
  6. ^ CiNii Dissertations - 日本の博士論文をさがす”. 国立情報学研究所. 2024年1月17日閲覧。
  7. ^ 女性史青山なを賞”. 東京女子大学女性学研究所. 2019年10月12日閲覧。
  8. ^ 女性学研究所の歴史”. 東京女子大学女性学研究所. 2019年10月12日閲覧。

参考文献

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  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

関連項目

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