隆渓繁紹
りゅうけい はんしょう 隆渓 繁紹(隆溪繁紹) | |
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1449年または1450年 - 1504年9月15日 (旧暦宝徳元年 - 旧暦永正元年8月7日) | |
没地 | 伊豆国田方郡 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺院 |
大徳寺 浄眼寺 石雲院 總持寺 華嚴院 修禅寺 |
師 |
一休宗純 崇芝性岱 |
隆渓 繁紹[注釈 1](りゅうけい はんしょう、1449年または1450年〈旧暦宝徳元年〉 - 1504年9月15日〈旧暦永正元年8月7日〉)は、日本の僧侶。俗姓は紀(き)。
概要
[編集]室町時代、戦国時代の曹洞宗の僧侶である。崇芝性岱の門下では大空玄虎らと並ぶ俊英として知られ[3]、崇芝の七高弟の一人とされる[4]。華嚴院を創建するとともに[4][2][5]、修禅寺を復興させたことで知られる[2][5][1]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]旧暦宝徳元年に生まれた[6][注釈 2]。幼少の頃から落ち着いており[7]、物静かであったという[7]。山城国愛宕郡の大徳寺の門を叩き[4][2][5][7]、一休宗純の下で剃髪し[7]、仏法を学ぶ[4][2][5]。その後、伊勢国飯高郡の浄眼寺の門を叩き[2]、大空玄虎に謁する[2]。さらに遠江国榛原郡の石雲院に参じ[2][1][7]、大空の師である崇芝性岱に師事した[2][7]。石雲院で18年ほど修行を積んだのちに一朝契悟し[2][7]、能登国鳳至郡の總持寺にて瑞世した[2]。
僧侶として
[編集]總持寺では住職を務めたが[7]、今川氏の下で高天神城の城代を務める浅羽幸忠に招かれ、遠江国城飼郡にて華嚴院を創建する[4][2][5][7][注釈 3]。ただし、隆渓は師である崇芝性岱を勧請開山とし、自身は第二世を称した。1487年(旧暦長享元年)には遠江国榛原郡にて正雲寺を開山する[8]。
韮山城の城主である伊勢盛時に招かれ[1][7]、1489年(旧暦延徳元年)に伊豆国田方郡の修禅寺にて住持職に据えられる[1][注釈 4]。それを機に修禅寺は臨済宗から曹洞宗に改宗した[1]。修禅寺は1361年(旧暦康安元年)に畠山国清の乱により戦渦を受け[1]、1407年(旧暦応永9年)には火災で伽藍が全焼したことから[1]、それ以来荒廃していたが[1]、盛時の庇護の下で隆渓が寺勢を盛り返した。修禅寺を再興したことから[2]、隆渓は修禅寺の中興開山と位置付けられており、修禅寺のウェブサイトでも「開山隆渓繁紹禅師」[1]と表記されている。
1499年(旧暦明応8年)に修禅寺を出て[7]、1499年9月(旧暦明応8年8月1日)に石雲院に輪住する[9]。師である崇芝性岱の没後、石雲院は崇芝の門流による輪住制が採られていたためである。その後、再び修禅寺に戻った[7]。1504年9月(旧暦永正元年8月7日)[4][2][5][7][10]、修禅寺にて死去した[4][5][7]。没年は56歳とされている[4][2][5][7]。
家族・親族
[編集]隆渓の先祖は伊豆国田方郡の北条で代々暮らしており[7]、紀姓であるという[7]。また、北条早雲こと伊勢盛時の研究が進む(現在は奉公衆である伊勢氏の一族とされる)までは叔父にあたるされた[1]。
略歴
[編集]- 旧暦宝徳元年 - 誕生[6][注釈 2]。
- 1487年 - 正雲寺開山[8]。
- 1489年 - 修禅寺住持職[1]。
- 1499年 - 石雲院輪住[9]。
- 1504年 - 伊豆国田方郡にて死去[4][5][7]。
登場する作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 「開山隆渓繁紹禅師」『修禅寺について|伊豆市|修善寺』修禅寺。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 孤峰智璨著作『日本禪宗史要』貝葉書院、1908年、97頁。
- ^ 孤峰智璨著作『日本禪宗史要』貝葉書院、1908年、96頁。
- ^ a b c d e f g h i 鈴木覺馬著作『嶽南史』2卷、嶽南史刊行會、1931年、578頁。
- ^ a b c d e f g h i 靜岡鄕土硏究會編纂『掛川誌』戌篇、靜岡鄕土硏究會、1929年、87頁。
- ^ a b c 曹洞宗全書刊行會編纂『曹洞宗全書』19巻20巻合册年表、曹洞宗全書刊行會、1935年、171頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 鈴木覺馬著作『嶽南史』2卷、嶽南史刊行會、1931年、614頁。
- ^ a b 「正雲寺」『正雲寺/ようこそ吉田町へ』吉田町役場、2016年2月16日。
- ^ a b 曹洞宗全書刊行會編纂『曹洞宗全書』19巻20巻合册年表、曹洞宗全書刊行會、1935年、195頁。
- ^ 曹洞宗全書刊行會編纂『曹洞宗全書』19巻20巻合册年表、曹洞宗全書刊行會、1935年、198頁。