コンテンツにスキップ

阿部宇之八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿部宇之八

阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日文久元年2月28日〉 - 1924年大正13年〉11月14日)は、大正期の札幌区長ジャーナリスト

経歴

[編集]

阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)に、名主阿部猪蔵の次男[1](三男とも[2])滝本五郎の長男として生まれ、叔父阿部興人の養子となった[3]。旧制徳島中学(現在の徳島県立城南高等学校)卒業後、1877年明治10年)に東京に出て、三菱商業学校慶應義塾で学んだ。1881年(明治14年)帰郷し、阿部興人の娘の恒と結婚する(いとこ婚)。

1882年明治15年)、『大阪新報』の記者となり、のち『大阪毎朝新聞』に転じ、『大阪毎朝新聞』は『郵便報知新聞』に吸収された。1886年(明治19年)、実父五郎と養父興人が興産社農場を開拓していた北海道札幌に渡って、北海道庁属の官吏となった。翌年、『郵便報知新聞』の懸賞論文に応募した「国税・税法大改正案」が一等に選ばれたのを機に北海道庁を辞し、小樽の実業家山田吉兵衛(のちの小樽区長)の誘いを受けて、『北海新聞』(のち『北海道毎日新聞』)及び札幌印刷所の経営にあたった。1901年、『北海道毎日新聞』は『北門新報』及び『北海時事』と合併し、『北海タイムス』となったが、引き続き理事として経営にあたった。この三社の合同には、北海道における政友会の地盤確立の意図があったとされる[4]

1913年大正2年)、札幌区長に選出され、1919年(大正8年)まで在職した。

その他、北水協会幹事長、監事を務めた。また区長退任後は北海道青年協会を創設し、『北海青年』を創刊した。

著名な子息に長男・阿部良夫、三男・阿部謙夫がいる[5]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 石井耕 (2010). “北海道における明治・企業勃興(上)”. 北海学園大学学園論集(144). 
  2. ^ 佐藤正志 (2007). “北海道移住と藍業の展 開一興産社を中心に一”. 農業史研究 ( 41 ) 17-27,1-2. 
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 44頁。
  4. ^ 開館10周年記念特別展 徳島から北海道へ”. 徳島県立文書館. 2022年5月11日閲覧。
  5. ^ 『阿部宇之八伝』280-282頁

参考文献

[編集]
  • 『阿部宇之八伝』阿部宇之八伝記刊行会、1933年11月14日。 NCID BN07041726全国書誌番号:46076777 NDLJP:1208343 

外部リンク

[編集]