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金子健造 (コスモス短歌会)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金子 健造
かねこ けんぞう
誕生 相原 健造
(1915-09-08) 1915年9月8日
日本の旗 日本 山梨県中巨摩郡明穂村
(現:南アルプス市
死没 (1988-07-14) 1988年7月14日(72歳没)
職業 歌人
言語 日本語
最終学歴 山梨県立農林学校 卒業
海軍砲術学校高等科 卒業
活動期間 昭和時代
代表作 『氷雪の旅』(遺稿集)
主な受賞歴 O先生賞(1986年)[1]
配偶者 金子静子
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金子 健造(かねこ けんぞう、1915年9月8日 - 1988年7月14日)は、昭和時代日本歌人

夢短歌会所属の歌人で「福岡市歌」作詞者(「金子健」名義)の金子健造1905年 - 1992年)は同姓同名の別人。

生涯

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1915年(大正4年)、山梨県中巨摩郡明穂村(小笠原町櫛形町を経て現在の南アルプス市)で農業を営む相原家の次男として出生[2]山梨県立農林学校を経て1935年(昭和10年)に横須賀海兵団へ入り、海軍砲術学校普通科を卒業する[2]1937年(昭和12年)6月、日支事変の勃発で兵役満了による除隊が不可能となり戦艦長門山城乗組員を経て上海陸戦隊、南方、横須賀鎮守府特別陸戦隊等に配属される[2]

1939年(昭和14年)、北原白秋主宰の『多磨』への投稿を始める。1940年(昭和15年)、海軍砲術学校高等科を卒業[3]1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦から横須賀港に帰還し海軍砲術学校の教員に就任する[3]

1943年(昭和18年)に刊行された『大東亜戦争歌集 愛国編』で入首[4]。この年に婿養子として金子静子と結婚し、金子姓となる[3]。厚木砲台長として終戦を迎えた後、海産物行商を営む[3]1949年(昭和24年)よりアメリカ軍横須賀海軍施設に勤務[5]1952年(昭和27年)に『多磨』が休刊した後、宮柊二が創立したコスモス短歌会に入会するが、間もなく休会する[5]

1976年(昭和51年)に横須賀海軍施設を退職し、1977年(昭和52年)7月にコスモス短歌会へ復帰。1986年(昭和61年)1月、O先生賞を受賞[1]1988年(昭和63年)7月14日、直腸癌のため逝去[6]。享年74(満72歳没)。没後に妻の静子が編纂した遺稿集が刊行された。

著作

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  • 金子静子 編『氷雪の旅 金子健造遺歌集』(伊麻書房、1990年全国書誌番号:91041245

出典

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  1. ^ a b コスモス短歌会『コスモス』1986年1月号, pp57-74。pp62-63に『氷雪の旅』の抄録と略歴あり。
  2. ^ a b c 氷雪の旅, p208
  3. ^ a b c d 氷雪の旅, p209
  4. ^ 柳田新太郎 編『大東亜戦争歌集 愛国編』(天理時報社、1943年), p1 NDLJP:1127787
  5. ^ a b 氷雪の旅, p210
  6. ^ 氷雪の旅, p211