金子健造 (コスモス短歌会)
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金子 健造 かねこ けんぞう | |
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誕生 |
相原 健造 1915年9月8日 日本 山梨県中巨摩郡明穂村 (現:南アルプス市) |
死没 | 1988年7月14日(72歳没) |
職業 | 歌人 |
言語 | 日本語 |
最終学歴 |
山梨県立農林学校 卒業 海軍砲術学校高等科 卒業 |
活動期間 | 昭和時代 |
代表作 | 『氷雪の旅』(遺稿集) |
主な受賞歴 | O先生賞(1986年)[1] |
配偶者 | 金子静子 |
金子 健造(かねこ けんぞう、1915年9月8日 - 1988年7月14日)は、昭和時代日本の歌人。
夢短歌会所属の歌人で「福岡市歌」作詞者(「金子健」名義)の金子健造(1905年 - 1992年)は同姓同名の別人。
生涯
[編集]1915年(大正4年)、山梨県中巨摩郡明穂村(小笠原町→櫛形町を経て現在の南アルプス市)で農業を営む相原家の次男として出生[2]。山梨県立農林学校を経て1935年(昭和10年)に横須賀海兵団へ入り、海軍砲術学校普通科を卒業する[2]。1937年(昭和12年)6月、日支事変の勃発で兵役満了による除隊が不可能となり戦艦・長門、山城乗組員を経て上海陸戦隊、南方、横須賀鎮守府特別陸戦隊等に配属される[2]。
1939年(昭和14年)、北原白秋主宰の『多磨』への投稿を始める。1940年(昭和15年)、海軍砲術学校高等科を卒業[3]。1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦から横須賀港に帰還し海軍砲術学校の教員に就任する[3]。
1943年(昭和18年)に刊行された『大東亜戦争歌集 愛国編』で入首[4]。この年に婿養子として金子静子と結婚し、金子姓となる[3]。厚木砲台長として終戦を迎えた後、海産物行商を営む[3]。1949年(昭和24年)よりアメリカ軍の横須賀海軍施設に勤務[5]。1952年(昭和27年)に『多磨』が休刊した後、宮柊二が創立したコスモス短歌会に入会するが、間もなく休会する[5]。
1976年(昭和51年)に横須賀海軍施設を退職し、1977年(昭和52年)7月にコスモス短歌会へ復帰。1986年(昭和61年)1月、O先生賞を受賞[1]。1988年(昭和63年)7月14日、直腸癌のため逝去[6]。享年74(満72歳没)。没後に妻の静子が編纂した遺稿集が刊行された。