西野忠臣
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1941年3月10日(83歳) |
身長 体重 |
178 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1960年 |
最終出場 | 1963年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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西野 忠臣(にしの ただおみ、1941年3月10日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)、元競輪選手。
来歴・人物
[編集]広島県立忠海高等学校ではエース。卒業後は1959年に巨人に入団し内野手に転向する。1961年に土屋正孝が国鉄にトレードされたため、藤本伸・塩原明らと二塁手の定位置を争い15試合に先発出場。しかし、打撃面で伸び悩み、肘の故障もあって1963年限りで引退した。通算46打数7安打、打率.152[1] 。
引退後、当時巨人のスカウトだった沢田幸夫が競輪ファンだった縁で、競輪選手養成のために、養成塾を開いていた小林三郎(期前)に弟子入りし、競輪に転身。日本競輪学校第20期生となる。なお、スピードスケートから転身した伊藤繁(日本競輪学校第21期生)も、小林養成塾の門下生で、一緒に競輪選手を目指して練習に励んだ間柄だった。
同校卒業後、日本競輪選手会神奈川支部に所属していたが、同期の代表的選手である吉川多喜夫も同じく神奈川支部にいた。後に、同選手会静岡支部に転籍した。
1973年と1974年の競輪王戦において決勝進出(いずれも7着)の実績がある。1982年の高松宮杯競輪が最後の特別競輪参加となったが、その頃まで、常時特別競輪への出場機会を得ていた。1984年2月8日に選手登録削除された。
逸話
[編集]プロ野球選手時代から足腰が強かったとして、以下のエピソードがある[2]。
- 1961年ごろの春季キャンプの初日に、藤本健作・大熊伸行・加田次男らと合宿所でユニフォーム姿のままで花札(コイコイ)に興じていたところを、二軍監督の武宮敏明に見つかって、「神聖なるキャンプ初日に、合宿で、神聖なユニフォームを着たまま、なんちゅうことを!」と大目玉を食らう。翌日四人は多摩川グランドで「5時間走りっぱなしの刑」を執行されたが、西野だけは5時間走りきったという。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1960 | 巨人 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1961 | 47 | 43 | 41 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 4 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 8 | 1 | .146 | .186 | .146 | .332 | |
1962 | 22 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1963 | 10 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
通算:4年 | 80 | 48 | 46 | 10 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 3 | 7 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 11 | 1 | .152 | .188 | .152 | .340 |
背番号
[編集]- 48 (1959年 - 1963年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 西野忠臣 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手通算成績 - KEIRIN.JP
- わきもと茂紀|44 忠高野球部の活躍(2)
- 内外タイムス2009年8月4日付記事