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西野忠臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西野 忠臣
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県
生年月日 (1941-03-10) 1941年3月10日(83歳)
身長
体重
178 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1959年
初出場 1960年
最終出場 1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

西野 忠臣(にしの ただおみ、1941年3月10日- )は、広島県出身の元プロ野球選手内野手)、元競輪選手

来歴・人物

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広島県立忠海高等学校ではエース。卒業後は1959年巨人に入団し内野手に転向する。1961年土屋正孝国鉄トレードされたため、藤本伸塩原明らと二塁手の定位置を争い15試合に先発出場。しかし、打撃面で伸び悩み、の故障もあって1963年限りで引退した。通算46打数7安打、打率.152[1]

引退後、当時巨人のスカウトだった沢田幸夫競輪ファンだった縁で、競輪選手養成のために、養成塾を開いていた小林三郎(期前)に弟子入りし、競輪に転身。日本競輪学校第20期生となる。なお、スピードスケートから転身した伊藤繁(日本競輪学校第21期生)も、小林養成塾の門下生で、一緒に競輪選手を目指して練習に励んだ間柄だった。

同校卒業後、日本競輪選手会神奈川支部に所属していたが、同期の代表的選手である吉川多喜夫も同じく神奈川支部にいた。後に、同選手会静岡支部に転籍した。

1973年1974年競輪王戦において決勝進出(いずれも7着)の実績がある。1982年高松宮杯競輪が最後の特別競輪参加となったが、その頃まで、常時特別競輪への出場機会を得ていた。1984年2月8日に選手登録削除された。

逸話

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プロ野球選手時代から足腰が強かったとして、以下のエピソードがある[2]

  • 1961年ごろの春季キャンプの初日に、藤本健作大熊伸行加田次男らと合宿所でユニフォーム姿のままで花札コイコイ)に興じていたところを、二軍監督の武宮敏明に見つかって、「神聖なるキャンプ初日に、合宿で、神聖なユニフォームを着たまま、なんちゅうことを!」と大目玉を食らう。翌日四人は多摩川グランドで「5時間走りっぱなしの刑」を執行されたが、西野だけは5時間走りきったという。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1960 巨人 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1961 47 43 41 6 6 0 0 0 6 1 4 3 0 0 1 0 1 8 1 .146 .186 .146 .332
1962 22 0 0 3 0 0 0 0 0 0 3 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1963 10 4 4 1 1 0 0 0 1 2 0 1 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .250 .500
通算:4年 80 48 46 10 7 0 0 0 7 3 7 6 0 0 1 0 1 11 1 .152 .188 .152 .340

背番号

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  • 48 (1959年 - 1963年)

脚注

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  1. ^ 通算成績
  2. ^ 『巨人軍の男たち』220頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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