稲葉誠治
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1917年4月13日 |
没年月日 | 2001年11月20日(84歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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稲葉 誠治(いなば せいじ、1917年4月13日 - 2001年11月20日)は、静岡県出身の元野球選手(投手)・監督。
旧姓「高塚」。
経歴
[編集]静岡の少年野球の強豪・掛川第一尋常高等小学校時代は全国大会に出場し、小学校の一学年上には享栄商業~巨人軍の名捕手・中山武がいた。
旧制岡崎中学校では捕手の佐藤武夫とのバッテリーで黄金期を作り上げ、1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。
慶應義塾大学に進学後は、1939年秋季と1940年春季のリーグ優勝に貢献し、1941年には東大戦でノーヒットノーランを達成するなど戦前の東京六大学リーグで活躍。
戦時中はニューギニアで陸軍伍長として兵役に就き、終戦後に帰国。その後は創成期の横浜高校監督を経て、1956年、母校・慶大の8代目監督に就任。1年目の春季では優勝を達成したが、長嶋茂雄擁する立大に後塵を拝したため1959年退任。
1960年からは日本通運浦和2代目監督に就任し、1964年には都市対抗で優勝に導き、東京五輪デモンストレーションゲームでも日通が母体となった全日本社会人選抜の監督を務めた[1]。1970年には東京スポニチ大会でも全国優勝に導いたが、1973年勇退。
その後は流通経済大学の野球部創設に尽力し、初代監督(1977年 - 1978年)を務めた。当初はグランドの無い時期からのスタートで総合的な練習量が不足し、チームとしてのカラーが出来なかったが、グランドも整備されて目標に照準を合わせた1977年7月に東京新大学リーグへ加盟[2]。1年目から秋季二部優勝に導き、翌春の一部昇格を達成した[2]。
1979年からはプリンスホテルの初代監督に就任し、1984年には東京スポニチ大会で全国優勝を達成した。同年退任。その後は山形県教育委員会スポーツアドバイザー(1995年)も務めた[3]。
2001年11月20日午後6時11分、心不全のため神奈川県横浜市金沢区の病院で死去。84歳没[4]。
指導した主な選手
[編集]慶大監督時代
[編集]日通浦和監督時代
[編集]- 渋谷誠司(国鉄スワローズ・サンケイスワローズ・サンケイアトムズ・アトムズ・ヤクルトアトムズ)
- 妻島芳郎(毎日大映オリオンズ・東京オリオンズ・ロッテオリオンズ)
- 竹之内雅史(西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ→阪神タイガース)
- 榊親一(東京オリオンズ・ロッテオリオンズ)
- 田中章(読売ジャイアンツ→西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ→大洋ホエールズ)
- 金田留広(東映フライヤーズ・日拓ホームフライヤーズ→ロッテオリオンズ→広島東洋カープ)
プリンスホテル監督時代
[編集]- 石毛宏典(西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス)
- 中尾孝義(中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ→西武ライオンズ)
- 金森栄治(西武ライオンズ→阪神タイガース→ヤクルトスワローズ)
- 住友一哉(近鉄バファローズ→阪神タイガース)
- 堀場秀孝(広島東洋カープ→横浜大洋ホエールズ→読売ジャイアンツ)
- 川村一明(西武ライオンズ→ヤクルトスワローズ)
- 高山郁夫(西武ライオンズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス)
関連情報
[編集]書籍
[編集]- 投手の育て方 技術と練習の指導(1974年、ベースボール・マガジン社)