照月 (駆逐艦)
照月 | |
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基本情報 | |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 秋月型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1939年度(④計画) |
起工 | 1940年11月13日 |
進水 | 1941年11月21日 |
竣工 | 1942年8月31日 |
最期 |
1942年12月12日[注釈 1]沈没 南緯09度13分 東経159度46分 / 南緯9.217度 東経159.767度 |
除籍 | 1943年1月20日 |
要目(計画) | |
基準排水量 | 2,701英トン |
公試排水量 | 3,470トン |
全長 | 134.2 m |
最大幅 | 11.6 m |
吃水 | 4.15 m |
主缶 | ロ号艦本式缶 3基 |
主機 | 艦本式タービン 2基、2軸 |
出力 | 52,000馬力 |
速力 | 33.0ノット |
燃料 | 重油:1,080トン |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 |
乗員 | 263名 |
兵装 |
65口径九八式10cm連装高角砲 4基 九六式25mm連装機銃 2基 九二式61cm4連装魚雷発射管 1基 (予備魚雷4本) 九四式爆雷投射機 2基 爆雷投下台水圧式 2基・手動式 4基 短艇 4 |
ソナー |
九三式探信儀 1基 [注釈 2] |
照月(てるづき)は[1]、大日本帝国海軍の駆逐艦[2]。 秋月型駆逐艦(一等駆逐艦)の2番艦である[3]。 艦名は片桐大自の研究によれば「照りかがやく月」の意味[4]。 アメリカ海軍は、秋月型駆逐艦について「照月級駆逐艦」(1番艦照月、2番艦秋月)と識別していた[5]。
概要
[編集]一等駆逐艦照月(てるづき)は[6]、日本海軍が太平洋戦争で運用した秋月型駆逐艦の2番艦[3]。三菱長崎造船所で建造された[7]。 1942年(昭和17年)8月31日に竣工し[7]、10月7日に新編の第61駆逐隊に所属した[2][8]。南東方面に出撃後、10月下旬の南太平洋海戦や11月中旬の第三次ソロモン海戦に参加した[2]。第三次ソロモン海戦では、11月12日から13日にかけての夜戦、戦艦比叡救援、11月14日の夜戦と戦艦霧島の救助に従事した[2]。 12月12日、第二水雷戦隊旗艦(司令官田中頼三少将)としてガダルカナル島への輸送作戦に従事中[9]、魚雷艇の雷撃で喪失[2][10]。秋月型駆逐艦最初の沈没艦となった。 艦名は海上自衛隊の初代あきづき型護衛艦2番艦「てるづき」、2代あきづき型護衛艦2番艦「てるづき」に継承された。
戦歴
[編集]実戦投入まで
[編集]1939年(昭和14年)度(④計画)の第105号艦[6][11]。1940年(昭和15年)11月1日、三菱重工業長崎造船所で大和型戦艦武蔵が進水すると、日本海軍は武蔵進水後の船台で秋月型駆逐艦を並べて建造することにした[12][13]。当初は秋月型4隻を同時建造の予定だったが、実際には2隻ずつ並んでの建造となる[13]。 11月13日、照月は三菱重工業長崎造船所で起工[7][11]。10月25日、第105号艦は「照月」と命名される[1]。同日附で秋月型駆逐艦に類別される[3]。
命名直前の9月12日に内示された『昭和17年度海軍戦時編制』によれば、秋月型3隻(秋月、照月、初月)は第25駆逐隊となり[14]、第25駆逐隊は空母鳳翔および特設航空母艦2隻と『第七航空戦隊』を編制予定であった[15]。だがこの編制を実現する前に太平洋戦争が勃発したため、秋月型3隻(秋月、照月、初月)が鳳翔と実戦に参加する事はなかった。
「照月」は真珠湾攻撃直前の11月21日に進水した[7][11]。
1942年(昭和17年)7月20日、折田常雄中佐(陽炎型駆逐艦浜風初代駆逐艦長、海兵49期)は照月艤装員長に任命される[16]。7月22日、照月艤装員事務所は事務を開始した[17]。 「照月」は8月31日に竣工して[7][11]、佐世保鎮守府籍となる[18][19]。 同日附で照月艤装員事務所を撤去した[20]。折田艤装員長も制式に照月駆逐艦長となった[21][22]。佐世保に回航後、9月6日同地を出発する[23]。9月8日、横須賀に到着[23]。9月30日に残工事を終えた[18][23]。
南太平洋海戦
[編集]日本海軍は1942年(昭和17年)10月7日付で秋月型2隻(1番艦秋月、2番艦照月)により第61駆逐隊を編成した[8](駆逐隊司令則満宰次大佐、海兵46期)[24][21]。 編制と同時に第61駆逐隊は、第三艦隊(司令長官南雲忠一中将・海軍兵学校36期)[25][26]・第十戦隊(司令官木村進少将・40期)に編入される[27][23]。10月10日、照月は横須賀を出港する[28][23]。10月14日、トラック諸島に到着する[29][23]。
「照月」は直ちに機動部隊本隊(第三艦隊司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将:旗艦「翔鶴」)と合流して出撃した。10月22日から23日にかけて重巡洋艦「筑摩」と共に艦隊から分離[30][31]、2隻だけで南雲機動部隊南方を捜索した[32]。だがアメリカ軍を発見できず、「筑摩」は南雲機動部隊前衛艦隊に、「照月」は南雲機動部隊本隊に合流した[32][33]。 10月26日の南太平洋海戦における「照月」は、第三艦隊司令長官(南雲中将)直率の第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の直衛についた[34]。随伴艦は重巡洋艦熊野と駆逐艦8隻(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉[35]、第16駆逐隊〈初風、雪風、天津風、時津風〉、第17駆逐隊〈浜風〉、第61駆逐隊〈照月〉)という編成である[34][36]。
戦闘の初期、SBDドーントレス2機(空母エンタープライズ所属機)の奇襲により空母「瑞鳳」が被弾、発艦不能となり戦線離脱を余儀なくされた[37]。つづく米空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)艦載機の攻撃により機動部隊前衛部隊に所属していた「筑摩」が大破[38]。機動部隊本隊では旗艦「翔鶴」が大破した[38]。戦史叢書によれば、「照月」は翔鶴直衛として対空戦闘中に至近弾を受け、若干の損傷を受けた[38]。照月主計長は、本艦の損傷は空襲中ではなくアメリカ軍飛行艇の夜間爆撃によると回想している[39]。7名が戦死した[40]。 また南雲長官(機動部隊司令部)は大破した「翔鶴」から「照月」に移乗する予定だったが[41]、照月不在のため「嵐」に移動した[35][42]。中島親孝第三艦隊通信参謀によれば、「照月」は出撃前の打ち合わせに参加していなかったため、いつのまにか「翔鶴」から離れていたという[43]。損傷空母2隻(翔鶴、瑞鳳)は駆逐艦「初風」と「舞風」に護衛されてトラックへ向かい、「嵐」は27日午前7時に機動部隊本隊に合流して南雲司令部を「瑞鶴」に送り届けた[43][44]。南雲長官が「瑞鶴」に移乗するまで第二航空戦隊司令官角田覚治少将(旗艦隼鷹)が航空戦の指揮を委任され、航空部隊(隼鷹、瑞鶴)を指揮してアメリカ軍機動部隊と交戦した[42][43]。海戦後の10月29日、トラック泊地に到着した[23]。工作艦「明石」による修理を受けた[18][45]。
第三次ソロモン海戦
[編集]南太平洋海戦後、「しばらくは空母同士の戦いは起こらないだろう」という判断により[46]、第十戦隊は第二艦隊(司令長官近藤信竹中将・海兵35期)の指揮下に入る[46]。次いで11月9日、第十戦隊は挺身攻撃隊(指揮官/第十一戦隊司令官阿部弘毅少将:旗艦比叡)に編入されてトラックを出撃し、ガダルカナル島沖に向かう[47][48]。 11月12日深夜からの第三次ソロモン海戦(12日夜戦・第一次会戦)では、ダニエル・J・キャラハン少将のアメリカ第65任務部隊とノーマン・スコット少将のアメリカ第64任務部隊と交戦する[49]。 挺身攻撃隊は第十一戦隊(比叡、霧島)、第十戦隊(旗艦〈長良〉、第16駆逐隊〈雪風、天津風〉、第6駆逐隊〈暁、雷、電〉、第61駆逐隊〈照月〉)、第四水雷戦隊(旗艦〈朝雲〉、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、夕立、春雨〉、第27駆逐隊〈時雨、白露、夕暮〉)という戦艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦14隻で[50]、このうち第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)は後方警戒のため夜戦には不参加である[51]。
日米双方の艦隊が混乱する中、照月は長10cm主砲160発、25mm機銃200発を発射し[52]、戦闘概報で「敵巡洋艦1隻・駆逐艦6隻と交戦し駆逐艦1隻撃沈・全隻に命中弾」と報告[53][54]。第十一戦隊司令部より『駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦4隻撃破』と認定された[55]。夜戦で日本側は駆逐艦2隻(暁、夕立)を喪失、駆逐艦3隻(雷、天津風、村雨)が損傷により戦闘に参加できなくなった[56]。
第一夜戦後の「照月」は、戦艦「霧島」の避退を護衛したのち、損傷した戦艦「比叡」(艦長西田正雄大佐)の直衛にあたった[57][58]。第十戦隊司令官木村進少将(旗艦長良)より命令を受けた「照月」は、舵故障のためサボ島周辺海域から離れられない「比叡」に合流する[59][58]。日の出後、比叡及び護衛駆逐艦(照月、雪風、時雨、白露、夕暮)[60]はアメリカ軍航空隊の波状攻撃を受けた[61][62]。 「照月」は陽炎型駆逐艦8番艦「雪風」(比叡より阿部少将座乗、臨時旗艦)[63]、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)と共に対空戦闘を行う[62]。照月による比叡操舵補助も試みられたものの失敗[64]。複数の爆弾と魚雷が命中した比叡は放棄され[65]、駆逐艦5隻(雪風、照月、時雨、白露、夕暮)は比叡艦長西田正雄大佐[66]をふくむ比叡乗組員を収容して戦場を離脱した[67][68]。「照月」には比叡乗組員約70-80名が移乗している[69]。深夜、駆逐艦5隻は現場にもどるが「比叡」の姿はなく、沈没したと認めて北上した[62][70]。
前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は、挺身攻撃隊残存部隊を収容すると艦隊の再編を実施した[71]。近藤中将直率のガ島攻撃隊は、射撃隊(第四戦隊〈愛宕、高雄〉、霧島、長良、雷、五月雨)、直衛隊(四水戦旗艦〈朝雲〉、第11駆逐隊〈白雪、初雪〉、61駆〈照月〉)、掃討隊(軽巡〈川内〉、第19駆逐隊〈浦波、敷波、綾波〉)という編成で、戦艦1隻・重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦9隻という戦力である[71]。「照月」は戦艦「霧島」の後方警戒を命じられる[72][73]。11月14日夜の夜戦(第三次ソロモン海戦・第三次会戦)における「照月」は、前進部隊(指揮官:第二艦隊司令長官近藤信竹中将。旗艦愛宕)の指揮下にあり、ウィリス・A・リー少将の第64任務部隊(戦艦2・駆逐艦4)と交戦した[74]。
砲戦時、射撃隊は朝雲-照月-愛宕(旗艦)-高雄-霧島という単縦陣であったという。「照月」は米戦艦サウスダコタ(USS South Dakota, BB-57)を砲撃したが、魚雷発射の機会には恵まれなかった(愛宕11本、高雄8本、朝雲4本発射、全て命中せず)[75][76]。この夜戦で「霧島」が米戦艦ワシントンの砲撃で航行不能となった[77][78]。霧島艦長岩淵三次大佐は駆逐艦による曳航によりガ島に擱座することを試みたが、「霧島」の曳航は不可能であった[79]。 「照月」は「朝雲」[80]、「五月雨」と共に霧島乗組員救助を命じられた[81]。沈没寸前の「霧島」は朝雲・照月に横付けを依頼、だが「照月」の接舷が遅れ乗組員の大半と御真影は、霧島に横付けした朝雲1隻に移動した[82][83]。「照月」は霧島艦尾に接近して乗員救助を行おうとしたが、沈降に巻き込まれそうになったので離れざるを得なかった[84][85]。霧島沈没後、3隻(朝雲、照月、五月雨)は海上に脱出した霧島乗組員を救助する(霧島艦長岩淵三次大佐をふくめ[86]、合計准士官以上69、下士官兵1031名)[77]。救助終了後、ガダルカナル島海域を離れた[87]。
海戦後、11月18日にトラックに帰投した[88][23]。再び「明石」の世話になり、11月28日に整備が終わる[88]。また、11月20日から12月1日の間は第十戦隊旗艦を務め[88][23]、その後阿賀野型軽巡洋艦「阿賀野」に旗艦を譲った[89]。
沈没
[編集]第三次ソロモン海戦は、日本海軍の敗北で終わった[90]。この海戦により輸送船団が壊滅状態になると、帝国海軍は駆逐艦にドラム缶を搭載してガダルカナル島へおくりとどける強行輸送作戦(鼠輸送)[91][92]、通称『ドラム缶輸送』を実施する[9][93]。増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)の指揮下で実施された第一次ドラム缶輸送作戦(11月30日)は、米艦隊に迎撃され夜間水雷戦闘となった(ルンガ沖夜戦)[94][95]。駆逐艦高波の喪失に対し米重巡1隻を撃沈、3隻を大破させたが[96]、輸送作戦そのものは失敗した[97]。 12月3-4日、田中司令官は駆逐艦10隻で第二次ドラム缶輸送作戦を実施するが[98]、輸送ドラム缶約1500個のうち回収されたものは約310個にすぎなかった[99][100]。
連合艦隊司令部はルンガ沖夜戦の戦訓から警戒駆逐艦の増強を決定し、12月1日附で駆逐艦3隻(秋月型〈照月〉、第17駆逐隊〈浦風、谷風〉)を外南洋部隊に編入した[101]。12月3日、「照月」はトラック泊地を出港直後に座礁してスクリューを傷つけ、修理後の12月5日に再出撃した[102][23]。 12月7日、ショートランド諸島に進出後[23]、増援部隊に編入された[101]。同時に、第二水雷戦隊(田中頼三少将・海兵41期)司令部が乗艦してその旗艦となる[103][104]。 同日夕刻、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐の指揮下で実施された第三次ドラム缶輸送作戦に参加していた陽炎型駆逐艦「野分」が空襲により大破[105]、駆逐艦3隻(長波、嵐、有明)の護衛下でショートランド泊地へ引き返した[101][106]。「照月」は救援のために出動、野分隊を掩護して泊地へ戻った[107][23]。また輸送作戦も米軍機と魚雷艇の襲撃により中止、揚陸を断念してショートランドへ戻った[101][108]。 12月10日にはショートランドに B-17 が飛来して爆撃を行い、タンカー「富士山丸」(飯野海運、9,527トン)と東亜丸(飯野海運、10,052トン)が損傷したため、3隻(照月、嵐、涼風)はその救援にあたった[109]。
12月11日、山本五十六連合艦隊司令長官は各方面に「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、有ラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ努メヨ」と激励した[110][111]。昼過ぎ、増援部隊(第二水雷戦隊)はガダルカナル島への第四次輸送作戦のためショートランドを出撃する[112][113]。 その戦力は、二水戦旗艦照月以下、第31駆逐隊(長波)、第15駆逐隊(陽炎、黒潮、親潮)、第17駆逐隊(谷風、浦風)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐)、第27駆逐隊(有明)という編成で[111]、駆逐艦11隻である[98][114]。警戒隊(照月、長波、涼風、江風、有明)、輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、谷風、浦風、嵐)という区分であった[115]。 夕刻前、第四次輸送部隊は戦闘機6機、急降下爆撃機20機に襲われたが、損傷はなかった[116]。照月、嵐、長波による2機撃墜と記録されている[117]。22時過ぎにはサボ島南方で魚雷艇の一隊と交戦し、第24駆逐隊(涼風、江風)により撃退と判断した[118][111]。やがて輸送隊をエスペランス岬に入泊させ、警戒隊は外洋で警戒にあたる[119][120]。照月は、先頭嵐-長波-照月という単縦陣の最後尾に位置していたという[121]。照月主計長の回想によれば、ここで田中少将は微速行進中の艦に停止命令を出した[122][123]。アメリカ軍魚雷艇の存在を懸念する意見もあったが、田中少将は「航跡の白さが上空の敵機の爆撃目標になる」と主張していた[122][124]。
同日、魚雷艇母艦に率いられた米軍魚雷艇(PTボート)は、すでにガダルカナル島北岸に展開していた[125]。魚雷艇3隻(PT37、PT40、PT48)が日本艦隊を襲撃する[125]。 23時ごろ、アメリカ軍魚雷艇によると思われる魚雷2本[125]が「照月」の左舷後部に命中した(魚雷艇を発見できないままに被雷)[126][127][40]。 舵と左舷主機が使用不能、航行不能となり重油や弾薬に引火して大火災となった[111][128]。この状況下、別の魚雷艇2隻(PT44、PT110)も戦場に到着した[125]。
被雷から約30分後、足を負傷した田中少将[9]および第二水雷戦隊司令部は、駆逐艦「長波」(第31駆逐隊)に移った[129][130]。 第4駆逐隊司令有賀幸作大佐(海兵45期、のち戦艦大和艦長)が指揮する「嵐」が照月艦首部に接舷し、乗員救助と消火作業にあたった[111][131]。「照月」は絶望と判断した折田(照月艦長)は機関長にキングストン弁を開いて自沈を命じ、実行された[132]。米軍魚雷艇の再襲撃や離脱距離を考慮したため、自沈を決定したともされる[133][134]。 12月12日午前1時15分、総員退去となる[135]。自沈処理完了[136]。放棄された「照月」は12月12日午前2時40分に沈没した[137][注釈 6]。沈没位置はサボ島の210度6.7海里地点[111]。南緯09度13分 東経159度46分 / 南緯9.217度 東経159.767度[138][139]。
「嵐」は照月乗員138名と第二水雷戦隊司令部員27名を救助するも、アメリカ軍魚雷艇が執拗に襲ってくるため救助作業を打ち切った[126]。照月駆逐艦長折田常雄中佐以下残る乗員156名(准士官以上17、下士官兵139)は、ボートでガダルカナル島カミンボ岬に上陸した[111][140]。 ガダルカナル島に上陸した照月乗組員は、後日、輸送のために到着した潜水艦部隊(伊号第十九潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十一潜水艦、伊号第三十一潜水艦、伊号第百六十八潜水艦)等に便乗し、同島を離れた[141][142]。
1943年(昭和18年)1月15日、「照月」は第61駆逐隊より外された[143]。書類上、「照月」は第四予備艦として扱われた[144]。折田中佐も照月駆逐艦長職を解かれ、横須賀鎮守府での待機を命じられた[145]。 1月20日をもって、「照月」は秋月型駆逐艦[146]、 帝国駆逐艦籍[147]より除籍された。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』353-354頁による。
艤装員長
[編集]- 折田常雄 中佐:1942年7月20日[16] -
駆逐艦長
[編集]参考文献
[編集]- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
- 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官新装版』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 9784-7698-2143-4。
- 大熊安之助ほか『海軍水雷戦隊 駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相』潮書房光人社、2016年10月。ISBN 978-4-7698-1629-4。
- (46-56頁)当時十九駆逐隊付・海軍主計大尉小池英策『第三水雷戦隊「綾波」ガ島沖への突撃行 飛行場砲撃部隊の露払いに任じた第十九駆逐隊の三次ソロモン海戦』
- (200-210頁)元二水戦首席参謀・海軍大佐遠山安巳『米海軍を驚倒させた田中式駆逐艦戦法 "水雷屋の神様"と称されて神業を発揮した田中頼三少将の素顔』
- (219-231頁)戦史研究家竹下高見『ガ島急行"輸送駆逐隊"一四〇日の盛衰 二水戦、三水戦、四水戦を投じ多大な犠牲を払ったネズミ輸送の実態』
- (232-261頁)当時二水戦司令官・海軍少将田中頼三、当時二水戦首席参謀・海軍中佐遠山安巳『水雷戦隊の雄"二水戦"司令官と参謀の回想 勇将のもと戦闘に護衛に輸送に獅子奮迅した精強戦隊の戦歴と素顔』
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 木俣滋郎『駆逐艦入門 水雷戦の花形徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年7月。ISBN 4-7698-2217-0。
- 草鹿, 龍之介「第四部 ソロモンの死闘」『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9。
- 小林昌信ほか『戦艦十二隻 国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮』光人社、2014年8月。ISBN 978-4-7698-1572-3。
- 元軍令部作戦課長・海軍大佐大前敏一『第二次大戦と日本戦艦十二隻の生涯 国家の興亡を賭けて建造された主力艦隊の生々流転と最後』
- 当時比叡坐乗第十一戦隊通信参謀・海軍中佐関野英夫『舷々相摩す激闘に高速戦艦「比叡」自沈す 第三次ソロモン海戦の砲撃戦の渦中にあって操艦した当事者の回想』
- 当時霧島応急指揮官・海軍少佐吉野久七『サボ島沖「霧島」至近距離砲戦の果てに 再度企図された戦艦によるガダルカナル飛行場砲撃行の結末』
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- (145-157頁)当時「天津風」艦長・海軍中佐原為一『天津風艦長三次ソロモン海戦の死闘 比叡霧島と共にガ島沖に突入、乱戦下、敵巡二隻を屠った艦長の手記』
- (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
- 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9。
- 高戸顕隆『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部海軍主計大尉の太平洋戦争』光人社〈光人社NF文庫〉、1999年。ISBN 4-7698-2227-8。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
- 中島親孝「第三章 敗北の構図〈第三艦隊参謀時代(一)〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年10月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1。
- チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』光人社、1983年。ISBN 4-7698-0208-0。
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- (174-187頁)米海軍少将S・モリソン、米国著述家T・ロスコ―、米戦略爆撃調査団『戦艦「比叡」十三日金曜日の悲劇 米艦隊から見た三次ソロモン海戦、阿修羅の死闘』
- (188-210頁)当時「霧島」庶務主任・海軍主計中尉小林道雄『高速戦艦「霧島」三次ソロモン海戦の最後 艦橋にあって大海戦の一挙一動を目撃した戦闘記録員の克明な手記』
- (211-218頁)米国著述家T・ロスコ―、米海軍少将S・モリソン、米海軍大佐W・カリグ『戦艦「霧島」サボ島沖の奮戦と最後 米艦隊から見た三次ソロモン海戦、戦艦対戦艦の対決』
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本時間12月11日深夜に被雷して日付変更直後に沈没したため、12月11日沈没とする資料もある。福井「日本駆逐艦物語」290頁など。
- ^ 秋月型駆逐艦では当初装備されたのは水中探信儀のみで、水中聴音機は後日装備とされた。秋月への装備が1944年8月〜10月末の間であり、照月へは装備する機会がなかったと推測される。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p39・p98〜99、『写真 日本の軍艦 第11巻』p158による。
- ^ 「(昭和17年)一二月一三日(日)晴(中略)一一日夜、ガ島の輸送。Sイ-3、敵魚雷艇に攻撃さる、消息不明。d×10の輸送、d×6は成功、「照月」敵魚雷艇と交戦、沈。ブナ方面、d×5の輸送成功。(以下略)」
- ^ 「(昭和17年)一二月一日(火)晴(中略)昨夜、サボ島東海面にて、我d×8敵有力部隊と夜戦。概報に依れば、敵B×1、C×1、d×2撃沈。我「高波」〔駆逐艦〕沈?尚戦果確むるを要す。」
- ^ 「(昭和17年)一二月八日(火)晴(中略)戦況、ガ島のd×10による輸送、敵機及魚雷艇の妨碍のため、揚陸止め引返す。」
- ^ 『日本の軍艦11』172ページでは「自沈」、遠藤, 199ページでは「自沈処置を取り、12月12日0240自沈確認」とある
- ^ 「○第二潜水隊(三〇-二二五四)伊十九潜、一九二五揚陸終了(中略)便乗者、往航海軍五名(通信員)、陸軍十五名。復航海軍五二名(主トシテ「照月」乗員)、陸軍七名。」
- ^ 「○乙潜水部隊(三-二二〇二)「ガ」島第二期第一次輸送情況/一.伊21潜十二-二六、伊31潜十二-二八、伊19潜一二-三〇〔行間書込〕魚雷艇ヲ認メズ、伊20潜十二-三一二〔行間書込〕以上四隻成功 伊168潜一-一〔行間書込〕敵魚雷艇発見、揚陸約六割ニテ避退。二、揚陸計約一〇〇「トン」。往航、海219名、陸39名。復航、海223(主トシテ「照月」乗員)、陸48名、便乗」
出典
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- ^ 主計大尉 1999, p. 175.
- ^ #外南洋増援部隊日誌(4)S1712p.11『0115照月自沈処置完了/0240照月沈没』
- ^ #外南洋増援部隊日誌(2)S1712p.17『0240照月沈没 司令、艦長以下准士官以上17名下士官兵139名陸上ニ移ル』
- ^ 遠藤, 199ページ
- ^ #秋月型(2015)76頁
- ^ 木俣『日本水雷戦史』248ページ
- ^ 高松宮日記5巻392頁[注釈 7]
- ^ 高松宮日記5巻407頁[注釈 8]
- ^ #内令昭和18年1月(2)p.7『内令第十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』
- ^ #内令昭和18年1月(2)pp.7-8『内令第二十號 佐世保鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 照月 右第四予備駆逐艦ト定ム 昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ a b 「昭和18年1月16日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1032号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089100
- ^ #内令昭和18年1月(2)p.24『内令第四十號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「、照月」ヲ削ル|潜水艦、一等伊一型ノ項中「、伊號第三」ヲ削ル』
- ^ #内令昭和18年1月(2)p.26『内令第四十四號 佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 照月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第三潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』