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無記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教用語
無記
パーリ語 avyākata
サンスクリット語 avyākṛta
中国語 無記
日本語 無記
英語 unanswered questions
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群盲象を評す自説経にて取り上げられる

無記(むき、: avyākata, アヴィヤーカタ: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として形而上学的な[1]、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、このような態度が採られた。

その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。無記答(むきとう)、捨置記(しゃちき)ともいう[2]。学説においては、釈迦は中道を意図したとの主張がある[1]

また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう[3]

我について

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仏教では無我を説き、常一主宰なを否定したうえで輪廻すると説く[4]

アーナンダ経

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パーリ仏典無記相応のアーナンダ経では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている[1]

  1. (attā)はあるか?
  2. 我はないのか?

この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている[1]

一切漏経

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パーリ仏典一切漏経では、への愛着につながる「無駄な探求」として、以下の16の問いかけを挙げている[5]

  1. 私は過去に存在したのか?
  2. 私は過去に存在しなかったのか?
  3. 過去の私は何物だったのか?
  4. 過去の私はどのようにあったのか?
  5. 過去の私は何物から何物となったのか?
  6. 未来に私は存在するのか?
  7. 未来に私は存在しないのか?
  8. 未来の私は何物となっているか?
  9. 未来の私はどうなるのか?
  10. 未来の私は何物から何者となるのか?
  11. 私は存在しているのか?
  12. 私は存在していないのか?
  13. 私は何物なのか?
  14. 私はどのようであるか?
  15. 私はどこから来たのか?
  16. 私はどこへ行くのか?

釈迦はこれらの思考は、常見断見といった悪見につながると述べている。

十無記

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パーリ仏典中部小マールンキャ経では十無記について記述されている[1][6]

釈迦は、修行中のマールキヤプッタ尊者より、これまで釈迦が回答を避けてきた以下10つの疑問について回答を求められた。

  1. 世界(loka)は常住(sassato)であるのか
  2. 世界は無常(asassato)であるのか
  3. 世界は有限(antavā)であるのか
  4. 世界は無限(anantavā)であるのか
  5. 生命(jīvaṃ)と身体(sarīra)は同一か
  6. 生命と身体は別個か
  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

これに対して釈迦は、毒矢のたとえを説き、「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」と回答した。

問1-6については、釈迦は自説経において群盲象を評すの寓話を挙げ、「ある一部分のみを見る人たちは、その一部分に執着して論争する」と説く。

問5-6については、釈迦は相応部無明縁経において中道を説いて否定し、続いて十二縁起を指し示している。

問7-10については、釈迦は火ヴァッチャ経において「存在しない(将来に生じない性質のものとなっている)」と答えを与えている[7]

善でも悪でもない無記(唯識思想、倶舎論など)

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仏教の唯識思想においては、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識の更に深層にある第八階層の)阿頼耶識は無記であるとされる。自己の過去の業は善あるいは悪であるが、現在の自己を成り立たしめている根源そのものである阿頼耶識は、過去の業から独立している(異熟である)とされるためである。阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが、もしもその阿頼耶識自体が本質的に悪ならば、我々はいつまでも迷いの世界を脱することができず、またもしも本質的に善ならば、迷いの世界はありえないことになるため、阿頼耶識そのものは、善・悪いずれの性質をも帯びない無記であるとされている[8]。なお、でも(=不善(ふぜん)[9])でもない中性のものを指す「無記」の用語は、倶舎論[10]を含め仏教全般で用いられることがある[2]。善、悪(=不善)、無記とをあわせて三性(さんしょう)という[2]

この無記のうち、煩悩のけがれのある無記を有覆無記(うふくむき、うぶくむき: nivṛtāvyākṛta)と、煩悩のけがれのない無記を無覆無記(むふくむき、むぶくむき、: anivṛtāvyākṛta)という[2]。なお、阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で、「無覆無記」という。また、(六識の更に深層にある第七階層の)末那識は、我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害があることから「有覆無記」という[11]

脚注

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  1. ^ a b c d e 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』新潮社、2015年4月、84-88頁。ISBN 978-4103391715 
  2. ^ a b c d 岩波仏教辞典, p. 781.
  3. ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、114頁。
  4. ^ 清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年、69頁。ISBN 978-4480075949 
  5. ^ パーリ仏典, 中部 2.Sabbāsava Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project
  6. ^ 長尾雅人(責任編集)『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』中央公論社、1969年4月、473-478頁。 
  7. ^ 清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年、138-140頁。ISBN 978-4480075949 
  8. ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、115-118頁。
  9. ^ 櫻部 1981, p. 73.
  10. ^ 櫻部・上山 2006, p. 79.
  11. ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、118-119頁。

出典

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関連項目

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