浜松町
浜松町 | |
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北緯35度39分21.98秒 東経139度45分23.37秒 / 北緯35.6561056度 東経139.7564917度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 港区 |
地区 | 芝地区 |
面積 | |
• 合計 | 0.19 km2 |
人口 | |
• 合計 | 2,284人 |
• 密度 | 12,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
105-0013[3] |
市外局番 | 03[4] |
ナンバープレート | 品川 |
※座標は世界貿易センタービル付近[5] |
浜松町(はままつちょう)は、東京都港区の町名。現行行政地名は浜松町一丁目および二丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は105-0013(芝局集配区)[3]。
地理
[編集]港区北東部に位置し、芝地区総合支所管内に属する。JR山手線・JR京浜東北線・東京モノレール羽田空港線の浜松町駅、都営地下鉄浅草線・都営地下鉄大江戸線の大門駅がある。町域の大部分は浜松町駅・大門駅を中心としたビジネス街・商業地であり、ビル街の中に住宅が混在している。東京国際空港(羽田空港)へ延びる東京モノレール羽田空港線の起点駅があることから、日本では主に駅名として広く知られている。
歴史
[編集]浜松町一丁目は、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城して以来、江戸城の城下町として整備された。慶長3年(1598年)、徳川将軍家菩提寺である増上寺が麹町より現在地に移った。慶長6年(1603年)には、東海道が現在の国道15号線上に定められ様々な店が並び商業地域の中心となり、軒を連ねる店の後ろには、松平家や森家、酒井家など、徳川将軍の家臣である大名屋敷が建ち並び、いわゆる江戸の町が形成された。浜松町一丁目の北側は「芝新銭座」(しばしんせんざ)と呼ばれ、寛永13年(1636年)にこの地に江戸における最初の銭貨鋳造所が設けられ、寛永通宝が鋳造されていたと伝えられている。芝の鋳造所は元文年間(1736年~1741年)頃に姿を消したとされているが、後世まで「新銭座」として地名が受け継がれ、旧町名は「芝新銭座町」という。
その後、「福澤屋諭吉」が誕生した明治2年(1869年)。当時、福澤諭吉と慶應義塾はこの「芝新銭座」に居を構えていた。それまで特定の名称がなかった「福澤塾」は「慶應義塾」と命名され、この新銭座の地が「慶應義塾」の発祥地。時に慶応4年(明治元年)。その敷地400坪余に100人程の塾生を収容できる塾舎が建てられ、本格的な英学塾が発足した。
浜松町二丁目の貿易センタービルの南裏側(旧芝浜松町四丁目の一部)は、かつて芝新網町(しばしんもうちょう)と呼ばれ江戸時代から続く三大貧民窟の一つであり、乞胸(ごうむね)・願人(がんにん)など江戸特有の賤民の居住地であった[6]。いずれも徳川時代の旧非人系の被差別部落であり、資本主義の発展の元で都市スラムとして拡大した。日露戦争(1905年)後、都市の拡大とともに、貧民窟には様々な圧力が加わった[7]。下谷万年町や芝新網町では、地価の高騰で家賃が上がり、多くの人々は場末の細民街に移動した。特に屑物屋は営業規則の施行で、荒川区の日暮里や三河島へと移転。四谷鮫ケ橋では、新宿南町の長屋へ移動していく人が多かった。
地名の由来
[編集]慶長年間、芝増上寺の代官である奥住久右衛門が名主を務め、この地が久右衛門町と呼ばれるようになる。元禄9年(1696年)、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、町名が久右衛門町から芝浜松町に変更され、芝浜松町一丁目から四丁目が成立した。
沿革
[編集]- 明治元年(1868年)、東京府の成立に伴い、芝浜松町一~四丁目は東京府の所属となる。
- 明治5年(1872年)、周辺の武家地を併合し、町域を拡大する。
- 明治11年(1878年)、芝区の成立に伴い、当地域は東京府芝区芝浜松町一~四丁目となる。
- 明治22年(1889年)、東京市の成立に伴い、当地域は東京市芝区芝浜松町一~四丁目となる。
- 明治44年(1911年)5月1日、町名より「芝」の冠称が省かれ、芝区浜松町一~四丁目となる。
- 昭和7年(1932年)12月1日、関東大震災後の復興のための大規模な町名整理が行われ、周辺の神明町・新網町・湊町などを編入し、新たに浜松町一~四丁目が成立する。
- 昭和11年(1936年)、浜松町一丁目・二丁目の一部が海岸通一丁目となる。
- 昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それに伴い町名に再び「芝」の冠称がつき、東京都港区芝浜松町一~四丁目となる。
- 昭和47年(1972年)1月1日、芝浜松町に住居表示が実施され、現在の浜松町一・二丁目が成立する。また、旧芝浜松町の一部は芝大門となる。
町名の変遷
[編集]実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) |
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浜松町一丁目 | 1972年1月1日 | 芝浜松町一丁目、芝浜松町二丁目 |
浜松町二丁目 | 芝浜松町三丁目、芝浜松町四丁目 | |
芝大門一丁目 | 1972年1月1日 | 芝浜松町一丁目、芝浜松町二丁目など(詳しくは芝大門の項を参照のこと) |
芝大門二丁目 | 芝浜松町三丁目、芝浜松町四丁目など(詳しくは芝大門の項を参照のこと) |
- 港区内の住居表示実施区域で「町」が付く町名はここ「浜松町」のみである。港区内で「町」が付く残りの麻布永坂町・麻布狸穴町は住居表示未実施。
世帯数と人口
[編集]2019年(令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
浜松町一丁目 | 1,201世帯 | 1,981人 |
浜松町二丁目 | 219世帯 | 303人 |
計 | 1,420世帯 | 2,284人 |
小・中学校の学区
[編集]区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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浜松町一丁目 | 全域 | 港区立御成門小学校 | 港区立御成門中学校 |
浜松町二丁目 | 全域 |
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]- 国道15号(第一京浜)
施設
[編集]浜松町一丁目
[編集]浜松町二丁目
[編集]- 世界貿易センタービル
- 東京モノレール本社
- 秋田屋
- 日本生命浜松町クレアタワー
脚注
[編集]- ^ “平成27年国勢調査による各総合支所管内別の町丁目別面積・昼夜人口等”. 港区 (2015年10月1日). 2019年9月8日閲覧。
- ^ a b “各月1日現在の各総合支所管内別の町丁目別人口・世帯数(平成14年~平成31年・令和元年)”. 港区 (2019年8月1日). 2019年9月8日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年9月8日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月7日閲覧。
- ^ Google Earthより
- ^ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.31、三一書房、1984年
- ^ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.119、三一書房、1984年
- ^ “港区立小・中学校通学区域一覧表”. 港区 (2015年4月1日). 2019年9月8日閲覧。