池田治道
池田治道 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 明和5年3月10日(1768年4月26日) |
死没 | 寛政10年5月6日(1798年6月19日) |
改名 | 岩五郎(幼名)→秀三郎→治道 |
戒名 | 大機院殿賢翁紹雄大居士 |
墓所 | 鳥取藩主池田家墓所 |
官位 | 従四位下、侍従、相模守、左近衛少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 鳥取藩 |
氏族 | 因州池田家 |
父母 | 父:池田重寛、母:村上氏 |
兄弟 | 治恕、治道、澄時、仲雅、池田斉政正室、松平信成正室 |
妻 |
正室:生姫(暾子)(伊達重村の娘) 継室:丞姫(徳川重倫の娘) 側室:於三保の方(三宅氏) 側室:浦の方(佃氏) |
子 | 斉邦、斉稷、道一、弥姫、幸、三津子、昭、愛子 |
池田 治道(いけだ はるみち)は、因幡鳥取藩の第6代藩主。島津斉彬・鍋島直正の外祖父。
経歴[編集]
江戸藩邸で生まれる。安永7年(1778年)、重寛の正室・仲姫(御三卿田安宗武の四女)の預かりとなり仲姫が養育する。継母の仲姫、祖母・桂香院の影響を受けて育つ。天明元年(1781年)、長兄で世嗣の治恕が江戸藩邸で死去し、天明2年(1782年)に藩主世嗣となる。天明3年(1783年)父・重寛が死去し、家督を相続する。翌、天明4年(1784年)、10代将軍徳川家治の面前で元服、家治の偏諱を受け治道と名乗る。従四位下に叙される。寛政2年(1790年)、正室・生姫と婚姻する。寛政4年(1792年)、生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず鳥取藩江戸藩邸で死去した。この長女・弥姫は薩摩藩主・島津斉興の正室となり島津斉彬の生母となった。寛政5年(1793年)、継室として丞姫を迎えた。
生姫の死去した寛政4年(1792年)、家督の相続をめぐって事件が起きた。治道の男児には、鳥取城で生まれた長男・銀之進(後の昭邦(斉邦))と江戸藩邸で生まれた次男の永之進(後の道稷(斉稷))があった。江戸では永之進を推す声が強く、国許との間に対立が起きた。治道が国許に帰国した際、家臣の佐々木磯右衛門は銀之進を世嗣とするよう諌言した。これに怒った治道は磯右衛門の頭を竹扇で打った。磯右衛門は帰宅するとその晩、2人の息子と切腹した。この事件を機に、治道は銀之進を世嗣と決定した。磯右衛門に対する行動や、(のちの話であるが)昭邦と名乗った銀之進に対して永之進には「道」の字を与えて道稷と名乗らせていることから、銀之進を世嗣と決定したのも本意ではなく、治道自身も永之進を跡目にと期待し、世嗣決定後も永之進を偏愛していたことがうかがえる。なお、銀之進(斉邦)は治道の死後、元服前に家督を相続するも、早世して男子もなかったため、結果的に永之進(斉稷)は1代置いて家督を相続している。
治道の時代は幕府の手伝い普請、天災などで藩財政が窮乏した。賢臣に恵まれ藩政改革を断行したが、なかなか財政再建までは至らなかった。文武を奨励し、学問も盛んになった。
寛政10年(1798年)5月6日に死去した。享年31。法号は大機院殿賢翁紹雄大居士。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。
系譜[編集]
ほかに男子が2人いる。
参考文献[編集]
- 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)