布智神社
布智神社 | |
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所在地 | 愛知県稲沢市祖父江町本甲宮東4 |
位置 | 北緯35度14分37.9秒 東経136度44分23.4秒 / 北緯35.243861度 東経136.739833度座標: 北緯35度14分37.9秒 東経136度44分23.4秒 / 北緯35.243861度 東経136.739833度 |
主祭神 | 軻具突智命 |
社格等 | 旧郷社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 10月13日[1] |
地図 |
布智神社(ふちじんじゃ)は、愛知県稲沢市祖父江町本甲宮東4に鎮座する神社。
社格は旧郷社[2]。日光川の右岸(西岸)にある。布智神社の周辺には、大字として祖父江町森上が、字として宮西や宮前や森下東などがある。神紋は五七の桐[1]。
祭神
[編集]由緒
[編集]古代
[編集]旧中島郡祖父江町には祖父江古墳群と総称される古墳群がある[4]。布智神社の西の鳥居の脇には径約30mで高さ約2mの墳丘があり、前方後円墳であると推定されているが、発掘の記録はない[5]。
延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に記載のある式内社であり、尾張国中島郡30座のうちの一つである[3]。この頃の丸渕、森下、森上付近は布智(淵)と呼ばれ、室町時代まで木曽川の分流が流れていた[2]。
中世・近世
[編集]平安時代末期に編纂された『尾張国内神名帳』には従一位布智天神、渕天神、渕森天神とある[3]。尾張国の国司が参拝した記録も残っている[3]。古来より鎮火・尚武の神として崇敬され、平安時代後期の崇徳天皇の保延年間(1135年~1140年)、京都で頻繁に大火が起こった時期には、火難の祈祷を命じられている[3]。
織田信長は布智神社で武運長久の祈願を行った[3]。慶長年間(1596年~1614年)には鎮火祭の祈祷が命じられている[3]。歴代清洲城主は社殿の修復や寄進などを行った[3]。
江戸時代には淵森天神と呼ばれていた[6]。元禄年間(1688年~1704年)以後に尾張藩によって編纂された『張州府志』にも言及されている[7]。木曽三川分流工事(宝暦治水)の総奉行である平田靱負は、布智神社に工事の成功を祈願した[6]。
江戸末期から明治初期に編纂された『尾張名所図会』にも正琳寺などとともに言及されている[8]。1907年(明治40年)には近代社格制度による郷社に列せられた[2]。
近代・現代
[編集]近代までは火神社(ひかみしゃ)とも呼ばれ[6]、また森下お宮と通称される[3]。1932年(昭和7年)に祖父江町教育会が発行した『祖父江町誌』には火神社として掲載されている[2]。同年時点の氏子は森上が150戸、森下が33戸、西川が93戸、計276戸だった[2]。
2008年(平成20年)、稲沢市は市制50周年を記念して「稲沢市の景観地50選」を選定し、「布智神社の深い森」も選ばれた[9]。
境内
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本殿
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祭文殿
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拝殿の天井画
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手水舎
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社務所
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稲荷社
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西の鳥居
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南の鳥居
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参道
文化財
[編集]稲沢市指定文化財
[編集]行事
[編集]- 歳旦祭
- 春分の日祭
- 10月13日 秋の大祭(例祭)
- 勤労感謝祭
- 鎮火祭
- 大祓
- 御武射祭
- 勧学祭
- 子供の日祭
- 茅の輪神事
- 敬老の日祭
- 末社稲荷社初午祭
現地情報
[編集]- 所在地
- アクセス
脚注
[編集]- ^ a b c d 『郷土のお宮』愛知県神社庁中島支部、2019年、p.98
- ^ a b c d e f 祖父江町教育会『祖父江町誌』祖父江町教育会編纂委員、1932年、pp.484-488
- ^ a b c d e f g h i 説明看板「布智神社の後由緒」
- ^ 『濃尾平野の歴史 2』小池昭、1995年、pp.63-65
- ^ 『愛知 史蹟郷土史』講談社、1982年、p.187
- ^ a b c d 『祖父江町史』祖父江町、1979年、pp.26-27
- ^ 『張州府志 第4』名古屋史談会、1913年-1916年
- ^ 『尾張名所図会 後編巻2 中島郡』片野東四郎、1880年
- ^ 景観地50選 ウォーキングマップ 稲沢市
脚注
[編集]- 『郷土のお宮』愛知県神社庁中島支部、2019年
- 『濃尾平野の歴史 2』小池昭、1995年
- 『愛知 史蹟郷土史』講談社、1982年
- 『祖父江町史』祖父江町、1979年
- 祖父江町教育会『祖父江町誌』祖父江町教育会編纂委員、1932年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 稲沢市 景観資源リスト 愛知県