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島津重年

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島津 重年
時代 江戸時代中期
生誕 享保14年2月11日1729年3月10日
死没 宝暦5年6月16日1755年7月24日
改名 善次郎(幼名)→久門(初名)→重年
別名 兵庫(通称
神号 栄国本事主命
戒名 円徳院殿覚満良義大居士
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町島津家墓地
官位 従四位下薩摩守左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
薩摩鹿児島藩
氏族 島津氏
父母 島津継豊島津久房の娘・登免
兄弟 宗信重年久峰、鐘、鉄、眞含院入来院定勝樺山久倫
正室島津都美
継室島津久尚の娘・
重豪
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島津 重利(しまづ しげとし)は、江戸時代大名島津氏の第24代当主。薩摩藩の第7代藩主。初名は久門(ひさかど)。

経歴

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加治木島津家時代

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享保14年(1729年2月島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、同年11月25日に分家筆頭で島津綱久の次男でもある加治木島津家当主・島津久季の養子となった。幼名善次郎。なお、母の登免(島津久房の娘)は天明年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎1人であった。

享保17年(1732年)に加治木島津家4代当主となり、元文2年(1737年)に元服して、島津兵庫久門と称す。元文3年(1738年)に島津貴儔とともに、家格を一所持から、新設された一門家に改められる。その年のうちに、貴儔の異母弟の島津忠紀重富島津家を興すと、この家も一門家に列せられ、一門家筆頭格となる[注釈 1]。加治木島津家は一門家の席次は2番目であったが、3番目とされた垂水家が貴儔の代に限り一門家筆頭であったので、実質的には久門は3番目の席次であった[注釈 2]。しかし、久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であり、宗信の仮養子になっていた。

藩主時代

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寛延2年(1749年7月10日、兄の宗信が死去したため、幕府の許可をもらって本家に復帰し、その跡を継いで藩主になった。加治木家は長男の島津久方(のちの島津重豪)が継いだ。同年11月従四位下侍従に叙任され、薩摩守を称した。また、9代将軍徳川家重より偏諱を授かり、久門から重利に改名している。

寛延3年(1750年)に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件がおこり、用人の皆吉続安ら遠島者10人を出す。

宝暦3年(1753年)に幕命により、木曾三川の治水工事宝暦治水)を命じられ、家老の平田靱負を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、宝暦5年(1755年)に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳で兄と同様に父に先立ち没した。

この前の宝暦4年(1754年)8月に長男・久方が(島津宗家としての)父の跡を継ぐため本家に入り[注釈 3]忠洪と改名し、重年の死後10歳で藩主に就任したが、元服時に同じく将軍家重より偏諱を授かって重豪と改名した。

人物

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  • 父同様に病弱な人物として知られるが、救仁郷善兵衛より剣術示現流を学ぶ[1]。同史料では薩摩藩主としては久しぶりに登場する人物である。

系譜

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  • 父:島津継豊(1702-1760)
  • 母:登免 - 島津久房の娘
  • 外祖父:島津久房島津光久十七男、通称は主馬、求馬)
  • 正室:島津都美(1727-1745) - 叔父島津貴儔の娘、延享2年11月7日に、善次郎を産んだ後、死去。法号は正覚院貞範妙雅大姉
    • 長男:島津重豪(1745-1833) - 善次郎、島津久方、島津宗家の嗣子になってから忠洪
  • 継室:村(?-1754) - 島津久尚の娘 - 宝暦4年2月2日死去
  • なお、佐土原藩島津久柄室・梅(先妻・都美の妹)は重豪の養妹であるが、重年の死後に養妹になったために重年の養子というわけではない。ちなみに尚古集成館の『島津氏正統系図』では重豪の養妹であったことすら省略されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、島津貴儔の垂水島津家当主在任中限定で筆頭ではなかった
  2. ^ ちなみに延享年間に島津忠郷今和泉島津家を興すと、この家が一門家最下位となる。
  3. ^ 重年には久方(重豪)の他に子供がいなかったため、加治木家に関しては、これを継ぐ者がいなくなり、島津久徴が継ぐまで当主不在となった。

出典

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  1. ^ 「示現流聞書喫緊録附録系図」参照

参考文献

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  • 「加治木町郷土史」
  • 「示現流聞書喫緊録附録系図」
  • 「島津氏正統系図」