コンテンツにスキップ

岩田暁美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩田 暁美
生誕 (1961-08-05) 1961年8月5日
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
死没 (2003-07-24) 2003年7月24日(41歳没)
日本の旗 日本 東京都港区
教育 東海大学教養学部芸術学科
職業 プロ野球記者
代表経歴 RFラジオ日本契約リポーター
テンプレートを表示

岩田 暁美(いわた あけみ、1961年8月5日[1][2][3] - 2003年7月24日)は、日本プロ野球記者神奈川県横浜市生まれ[1][2][3]東海大学教養学部芸術学科(ヴィオラ専攻)卒業[3]

来歴・人物

[編集]

中学時代、アンチ巨人[3]大洋ホエールズファン[1]の母親に連れられ川崎球場で大洋戦を観戦[3]。それ以来、連日同球場へ通うほどの大洋ファンとなった[3][1]。高校在学中の1978年、オープンしたばかりの横浜スタジアムで初代マスコットガールを担当[1]。東海大学在学中(1年[3])よりベンチリポーターとして活動[1][3]ラジオたんぱ[2]RFラジオ日本[1])。卒業後も引き続きRFの契約リポーターとして活動する[1]

プロ野球記者として福岡ダイエーホークスヤクルトスワローズなどの担当[2][4]を経て、1994年日本シリーズからは、長嶋茂雄読売ジャイアンツ=巨人監督)の番記者「長嶋番」として密着取材を展開[2]。ソバージュによる長髪・日焼け顔の風貌[2][3]と相まって、その取材振りはものまねタレントコンビであるノブ&フッキーがネタのレパートリーとするほどの人気を集めた。2002年5月には、AMラジオのプロ野球中継では初の女性実況を担当[2][5]。一度だけ前半は巨人戦の実況を担当し、後半はベンチリポートというラジオの試合中継では異例のアナウンサーリレーを行ったこともあった。なおこの時に前半ベンチリポート→後半実況を担当したのは、RFアナウンサーの染谷恵二である。

また、プロ野球のみならず東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の記者としても活動[3]し、『東京スポーツ』にもプロ野球関連の読み物を寄稿していた。

2003年2月に子宮癌にかかり、入退院を繰り返す[2]。その後3月をもってRFとの契約が終了[2][1]。入院中も巨人戦のスコアシートをつける[2]など精力的に仕事への復帰を目指そうとしたが、7月24日に心不全のため東京都港区病院で死去[2][4]。41歳没。RFでの最後の仕事は、同年1月の箱根駅伝中継リポーターだった[2]

死去した日には午後7時から約20分にわたり、RFで緊急追悼特別番組を生放送。同局のスポーツ中継で実況を担当した内藤博之(司会進行)、野球解説者の広岡達朗らが出演した。

詳細情報

[編集]

出演番組

[編集]

新聞

[編集]
  • 東京スポーツ(コラムを寄稿[3]

著書

[編集]
  • 岩田暁美のとなりのチョーさん 密着2162日、素顔の長嶋監督(2000年11月、小学館ISBN 4098400650

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 長嶋“恋人”急死…名物記者の岩田暁美さん - ZAKZAK2003年7月24日付(インターネットアーカイブ2003年8月1日付保存キャッシュ)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 名物長嶋番記者 岩田暁美さん死去 - スポニチアネックス2003年7月25日付(インターネットアーカイブ2003年8月1日付保存キャッシュ)
  3. ^ a b c d e f g h i j k 外部リンク(RFラジオ日本在職当時のプロフィール)より。
  4. ^ a b 岩田暁美さん死去 元ラジオ日本スポーツキャスター - 47NEWS2003年7月24日付(配信元:共同通信社
  5. ^ スポーツ報知公式サイト内芸能情報サイト(インターネット・アーカイブ2002年10月4日付保存キャッシュ)→ラジオ番組記事バックナンバー(2002年1月9日 - 10月4日)(同10月15日付保存キャッシュ)→3月21日付「岩田暁美さん公式戦実況デビュー」(同10月17日付保存キャッシュ) ※3月21日、同年に実況を担当することが明らかになった旨、民放ラジオ初の女性による巨人戦実況である旨、4月に放送予定である旨が記載。記事の配信日付(月日)は、バックナンバー一覧に記載。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

※いずれも、インターネットアーカイブの保存キャッシュ。