小林芳郎
小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857年4月23日) - 昭和11年(1936年)3月23日)は、明治から大正期にかけて活動した日本の検事。大正時代初期には大阪控訴院検事長として辣腕をふるい、「検察の神様」[1]と呼ばれた。
生涯
[編集]肥前国水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)において、葉隠の武士、佐賀藩士 南里与助の四男として生まれる。生まれてすぐに、与助の兄・小林丈蔵の養子となった。このころ、叔父にあたる真崎秀郡や、その友人である楠田英世と交流を持った。上京ののち東京開成学校に学ぶも中退。明治12年(1879年)、中村正直の私塾・同人社に入学した。
明治16年(1883年)に判事補となり、のちに判事から検事に転じる。明治39年(1906年)、東京地方裁判所検事正となり、大正2年(1913年)4月に大阪控訴院(現:大阪高等裁判所)検事長に転じて大正9年(1920年)7月までその職にあった。
この間、明治41年(1908年)の日本製糖汚職事件、そこから発覚した内外石油事件、大正2年(1913年)の米騒動、大正4年(1915年)の大浦兼武内務大臣(大隈内閣)の選挙違反事件(大浦事件)、大正7年(1918年)の大阪朝日新聞主筆鳥居素川の筆禍事件(白虹事件)や京都府知事木内重四郎らによる汚職疑惑事件(豚箱事件)などを取り扱った。
贈収賄事件にたいして厳しく取り組んだ。多くの検事が小林の指揮や指導の下で影響を受け、塩野季彦、小原直、武富済らの後進が輩出した。その一方で、豚箱事件では木内重四郎をはじめ府庁幹部・府議会議長らを収監、検事による自白の強要など過酷な取り調べが行われ、人権蹂躙事件として問題化した。大正9年(1920年)1月に京都地方裁判所で容疑者全員が無罪判決が下ったことで、小林の大阪控訴院検事長辞任につながった。
栄典・授章・授賞
[編集]註
[編集]伝記資料
[編集]- 望月茂『小林芳郎翁伝』(壷誠社、1940年)