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定恵法親王

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定恵法親王(じょうえほっしんのう、保元2年(1157年)- 建久7年4月18日1196年5月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族・僧侶。後白河天皇の第五皇子。母は平信重の娘[1]。通称は平等院宮・法輪院宮。

経歴

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仁安元年(1166年)、道恵法親王の下で出家し、権少僧都・権僧正を経て寿永2年(1184年)に四天王寺別当になる。建久元年(1190年)、親王宣下を受けて、園城寺長吏に任じられる。建久7年(1196年)に在職中に死去。

脚注

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  1. ^ 『皇胤系図』。『本朝皇胤紹運録』は平信業保延4年(1138年)生まれ)の娘とするが、年齢的に信業の姉妹と考えられる。『今鏡』(「御子たち」巻「腹々の御子」章)には「御おぼえの某の主の妹」と記されている。

参考文献

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  • 田中徳定「後白河天皇」志村有弘 編『天皇皇族歴史伝説大事典』(勉誠出版、2008年) ISBN 978-4-585-06063-5 P494.
  • 渡邊旭「定恵法親王」『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7 P1195-1196.