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宇治紫文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇治 紫文(うじ しぶん)は、一中節三味線方の名跡。代々都派の宇治派家元

初代

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寛政3年(1791年) - 安政5年2月22日1858年4月5日))本名は勝田権左衛門。通称、雄輔という。

江戸浅草材木町の名主。一中節菅野派の家元2代目菅野序遊の門下。後に都派に転じ都一閑斎と名乗る。1849年宇治紫文斎と名乗り宇治派を樹立した。数十曲の新曲を残している。

2代目

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文政4年(1821年) - 明治12年(1879年9月13日

初代の実子で名を福太郎という。最初は初代宇治紫鳳1859年に2代目紫文を襲名。1875年5月に隠居し宇治閑斎翁を名乗った。

3代目

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天保5年12月17日1834年1月15日) - 明治36年(1903年10月21日

本所の生まれ。家業は質屋で1855年に発生した安政江戸地震で自宅が倒壊し呉服業に転業、1857年に一中節菅野派で初代菅野序柳になったが廃業し三味線の糸商に転業、その後宇治派に転じて初代宇治倭文の門下で2代目宇治紫鳳から1875年5月に3代目紫文を襲名した。「葵の上」「廓文」を作曲。

4代目

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(明治14年(1881年2月28日 - 昭和18年(1943年11月17日)本名は鈴木喜久。

東京の生まれ、3代目紫文の孫娘。祖父や杵屋六繁の陶酔し1901年4代目宇治倭文1921年に4代目紫文を襲名した。

5代目

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(明治19年(1886年3月7日 - 昭和46年(1971年1月7日)本名は中村久江(ひさえ)。

愛知県名古屋市の生まれ、宇治りうと4代目紫文に一中節の手解きを受け、1921年に紫佐江、紫友を経て1947年に5代目宇治倭文を襲名。1949年に5代目紫文を襲名し家元になる。1968年に引退し宇治ひさを名乗る。「須磨の月」を作曲。

6代目

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(明治44年(1911年1月10日 - 昭和49年(1974年1月23日)本名は岩城采子。

大阪の生まれ、1933年から4代目紫文に学び、1939年に宇治文、1968年に5代目紫文が引退したために6代目紫文を襲名。

7代目

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(昭和8年(1933年8月8日 - )本名は梅津ふじ。

山形県生まれ、1944年から山田流箏曲を中田博之に師事。1958年に6代目紫文に師事し1964年に宇治文彩の名を許される。1983年1985年芸術祭優秀賞受賞。1992年に7代目紫文を襲名。1993年芸術作品賞受賞。1996年に芸術選奨文部大臣賞受賞。1997年紫綬褒章受章。1999年重要無形文化財保持者(人間国宝)として各個認定された。 2003年11月に旭日中綬章受章[1]

脚注

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  1. ^ 平成15年秋の叙勲 旭日中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 2 (2003年11月3日). 2004年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月27日閲覧。