国分三亥
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国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日[1](1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日[2])は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。
経歴
[編集]備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した[3]。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格[1]。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した[1]。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した[1]。韓国併合後は、朝鮮総督府裁判所高等法院検事長、朝鮮総督府司法部長官、朝鮮総督府法務局長を務めた[3]。
1920年(大正9年)に退官後は錦鶏間祗候となり、1922年(大正11年)からは久邇宮宮務監督を務めた[3]。1925年(大正14年)より宮中顧問官となったが[4]、辞して1932年(昭和7年)9月27日に再び錦鶏間祗候となった[3][5]。
その他、二松學舍常任理事・理事長(1932年-1948年)、逗子開成中学校理事長、横浜倉庫株式会社社長、東華生命保険株式会社監査役などを務めた[3][6]。
1961年1月、岡山県高梁市の名誉市民。1962年、98歳で亡くなる。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(上)』人事興信所、1934年。