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吉田苞

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吉田 苞(よしだ しげる、1883年4月25日 - 1953年4月27日)は、日本の洋画家岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ[1][2]

略歴

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対露宣戦布告御前会議
  • 1929年(昭和4年) - 児島虎次郎の死去により、同人が担当していた聖徳記念絵画館壁画『対露宣戦布告御前会議』を揮毫することになる。児島が建てた都窪郡中洲村酒津(現在の倉敷市酒津)の特設アトリエに立て籠もり壁画に専念する。
  • 1934年(昭和9年) - 『対露宣戦布告御前会議』完成し納入する。
  • 1935年(昭和10年) - 帝展廃止後の二部会に『奈良の森』を出品。
  • 1936年(昭和11年) - 二部会に『緑端』を出品。これ以降は中央の展覧会には出品せず、自己の創作活動と岡山洋画研究会の指導に専念。
  • 1942年(昭和17年) - 第六高等学校の自在画課目廃止のため講師を辞任。
  • 1944年(昭和19年) - 合同新聞社文化賞受賞。
  • 1945年(昭和20年)6月29日 - 岡山空襲。岡山市小橋町のアトリエは羅災を免れるものの、羅災地にあった吉田の作品は焼失する。
  • 1953年(昭和28年)2月 - 岡山県文化賞受賞。
  • 1953年(昭和28年)4月27日 - 十二指腸潰瘍のため岡山市小橋町の自宅で死去。

(参考文献:[1][2]

親族

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脚注

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  1. ^ a b 岡山市史 美術映画編(岡山市史編集委員会、1962年)
  2. ^ a b 宇野地区の歴史 : 旧上道郡宇野村史(宇野学区史刊行会、1981年)
  3. ^ 「島村久 (男性)」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース

関連項目

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