吉田苞
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吉田 苞(よしだ しげる、1883年4月25日 - 1953年4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ[1][2]。
略歴
[編集]- 岡山県立岡山中学校在学中、大森陶生に水彩画を学ぶ。
- 1903年(明治36年) - 同校卒業。
- 1908年(明治41年) - 東京美術学校西洋画科卒業。
- 1910年(明治43年) - 同校研究科修業。この間、黒田清輝、藤島武二らに学ぶ。
- 1911年(明治44年) - 東京の麻布連隊へ志願兵として入兵。歩兵伍長として同年末除隊。
- 1912年(明治45年/大正元年) - 岡山に帰る。ヨーロッパ留学から帰国した児島虎次郎と岡山洋画研究会(現在の岡山美術研究会)創立。
- 1915年(大正4年) - 第九回文部省美術展覧会に『森』を出品し入選。以後、文展・帝展に毎回入選して洋画家としての地歩を築く。
- 1919年(大正8年) - 第六高等学校自在画課の講師となる。
- 1920年(大正9年) - 美術研究のため欧州に遊学。主にフランスに足をとどめ、ドイツ・イタリア・ベルギー・スペイン・オランダを一巡して翌年帰国。
- 1921年(大正10年) - 第三回帝展に滞欧中の作品『ブリュージュにて』を出品し特選。
- 1922年(大正11年) - 第四回帝展に『母と子』を出品し特選。
- 1928年(昭和3年) - 帝展無鑑査に推薦。
- 1929年(昭和4年) - 児島虎次郎の死去により、同人が担当していた聖徳記念絵画館壁画『対露宣戦布告御前会議』を揮毫することになる。児島が建てた都窪郡中洲村酒津(現在の倉敷市酒津)の特設アトリエに立て籠もり壁画に専念する。
- 1934年(昭和9年) - 『対露宣戦布告御前会議』完成し納入する。
- 1935年(昭和10年) - 帝展廃止後の二部会に『奈良の森』を出品。
- 1936年(昭和11年) - 二部会に『緑端』を出品。これ以降は中央の展覧会には出品せず、自己の創作活動と岡山洋画研究会の指導に専念。
- 1942年(昭和17年) - 第六高等学校の自在画課目廃止のため講師を辞任。
- 1944年(昭和19年) - 合同新聞社文化賞受賞。
- 1945年(昭和20年)6月29日 - 岡山空襲。岡山市小橋町のアトリエは羅災を免れるものの、羅災地にあった吉田の作品は焼失する。
- 1953年(昭和28年)2月 - 岡山県文化賞受賞。
- 1953年(昭和28年)4月27日 - 十二指腸潰瘍のため岡山市小橋町の自宅で死去。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 岡山市史 美術映画編(岡山市史編集委員会、1962年)
- ^ a b 宇野地区の歴史 : 旧上道郡宇野村史(宇野学区史刊行会、1981年)
- ^ 「島村久 (男性)」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース