古賀伝太郎
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古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 1932年1月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。しばしば「古賀聯隊長」とよばれる。旧姓、野方。
経歴
[編集]佐賀県佐賀郡生まれ。野方房次の五男として生まれ、古賀家の養子となる。佐賀中学校卒を経て、1901年(明治34年)12月、士官候補生(15期)として騎兵第3連隊に入隊。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校を卒業。1904年(明治37年)3月、騎兵少尉に任官、騎兵第3連隊付としてただちに日露戦争に出征し、随所で戦って戦功あり。奥保鞏軍司令官から個人感状を授与された。
以後、1910年(明治43年)9月、騎兵第3連隊副官となり、同中隊長、騎兵第22連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官などを歴任し、累進して1927年(昭和2年)7月、騎兵中佐に任じ、翌年8月、騎兵第27連隊長に補せられた。
1931年(昭和6年)12月、満州事変に混成第38旅団に属し出動した。翌1932年1月9日朝、抗日ゲリラ掃蕩のため部下の聯隊総員約130名を率いて錦西を出発し、その西方の上坡子付近で俄然、優勢な敵の射撃を受け戦闘を開始したが、戦況はなはだ不利。おりしも敵兵5、600が軍旗所在地の錦西に前進中であるのを目撃し、直ちに隊をまとめて錦西に疾駆し、市街西側部落で激しい白兵戦を敢行したが、敵の数弾をうけて戦死した。
錦西の小部隊は衆敵を受けて一時は軍旗も危殆に瀕したが、かろうじて堪え忍び、増援隊が来るに及んでようやく危機を脱した。
古賀は翌日、大佐に任ぜられた。
栄典
[編集]- 位階
- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[1]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[2]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[3]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[4]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[5]
- 1931年(昭和6年)2月2日 - 正五位[6]
- 1932年(昭和7年)1月18日 - 従四位[7]
- 勲章
親族
[編集]古賀伝太郎をとりあげた作品
[編集]- 音楽作品「古賀連隊長」「噫!古賀連隊」「噫々軍神古賀連隊長」
- 映画「護国の鬼古賀連隊長」(1932年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」1920年12月2日。
- ^ 『官報』第1234号「叙任及辞令」1931年2月12日。
- ^ 『官報』第1513号「叙任及辞令」1932年1月19日。
- ^ 『官報』第1141号「叙任及辞令」1930年10月16日。
- ^ 古賀及子 (2013年11月26日). “物置からひいおじいちゃんにまつわる資料が大量に出てきた”. デイリーポータルZ. ニフティ. 2013年11月27日閲覧。