千葉利胤
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 永正12年8月5日(1515年9月12日) |
死没 | 天文16年7月12日(1547年7月28日) |
氏族 | 千葉氏 |
父母 | 父:千葉昌胤 |
兄弟 | 利胤、胤富、親胤? |
子 | 親胤 |
千葉 利胤(ちば としたね)は、下総の戦国大名で、千葉氏の第25代当主。第24代当主・千葉昌胤の長男。覚阿弥[1]。
略歴
[編集]利胤の少年時代は小弓公方や里見氏の侵攻によってかつての本拠地であった亥鼻の支配権すら失う状況であり、元服も千葉氏代々の慣例であった千葉妙見宮(現在の千葉神社)で行う事が出来ずに、大永3年11月望日に本拠地の佐倉近くの佐倉妙見宮で行われて、改めて千葉妙見宮に元服を報告する使者を発している(『千学集抄』)。
1546年、父の死去により跡を継ぐ。千葉氏の家中では原胤清ら重臣の発言力が強かった。また、この頃に弟の臼井胤寿と争っていることが知られている[2]。河越夜戦では、関東諸将で唯一北条方に参加したものの、家督を継いでからわずか1年で死去したため、あまり事蹟らしい事蹟はない。享年33。跡を子の千葉親胤が継いだ(実子がいないため、末弟である親胤を子として家督を継がせたとも)。
佐倉市の海隣寺にある海隣寺中世石塔群の石塔には刻まれた銘文から利胤の菩提を弔ったものも含まれる[1]。
脚注
[編集]- ^ a b “佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。
- ^ 天文19年11月23日の千葉妙見社(現在の千葉神社)の遷宮の際に臼井氏は当主が参列せず、同年12月24日には原胤貞が臼井城に入っており、利胤あるいはその後を継いだ親胤に寿胤が攻め滅ぼされたとみられる(黒田基樹「戦国期下総千葉氏権力の政治構造」(『千葉県史研究』13号、2005年)/改題:「下総千葉氏権力の政治構造」(黒田『戦国期領域権力と地域社会』、岩田書院、2009年))